takegrigriの今昔物語

団塊世代のじじぃが昭和時代から見てきたことを書いています

スーパーマーケット以前

今では、スーパーマーケット(ふつうはこんな言い方ではなくスーパーと言っていますね)やコンビニエンスストア(コンビニ)で日常の買い物をすることが普通ですが、僕が小・中学生の頃(1960年前後)スーパーもコンビニもありませんでした。
当時どこで買い物をしていたかというと、僕の家の近くに「公設市場」というものがあり、そこに行けばほとんどのものが揃っていました。
この公設市場には、八百屋、魚屋、肉屋、卵屋、漬物屋、果物屋などの食料品の専門店のほか、針や糸などを売っている小間物屋、鍋、やかん、金盥(かなだらい)や、箒(ほうき)、ちりとり、ざる、などの日用雑貨を売る荒物屋、傘屋などが入っており、現在のスーパーで売っているすべてのものとほぼ同じものをここで揃えることができました。
文房具店や薬局は僕が行っていた公設市場には入っていなくて、別に店を構えていました。
公設市場のそれぞれの店は別々の個人経営になっていました。
公設市場は商店街ではなく、大きな倉庫のようなひとつの建物の中にひしめき合うように店が入っていました。

僕の家の近くには歩いて行ける範囲で2つ公設市場があり、買い物には便利なところでした。

公設市場に入っている店の中で卵屋は小学生の僕には興味深いものでした。
卵屋では卵の他に鶏肉も売っていました。
間口一間(約180cm)の半分ぐらいの幅で奥行50、60cmの枠の中にもみ殻を敷き詰め、その上に卵を大・中・小に分けて並べていました。そして、お客がいない時は、店主が卵1個1個を天井からつりさげた発熱電球にかざし卵の中を透かしていました。多分卵が傷んでいないかどうかを確認していたのだと思います。どこを見れば卵の良し悪しがわかるのだろうかと興味がありました。買ってきた卵を電球にかざして見てみましたが、どこを見れば卵の良し悪しが分かるのか分かりませんでした。

僕が幼稚園か小学校の低学年のころ(1950年代の中頃)卵は大で1個17円か18円、小で9円か10円ぐらいだったと思います。その頃の一般的な給料が1万円以下だったので、卵は高級な食べ物でした。
このあとすぐに高度経済成長時代に入ったので給料は増えていきましたが、卵の価格はそれほど上がらず、裕福ではない僕の家でも卵をよく食べるようになりました。多分養鶏技術が確立してきて卵を大量生産できるようになってきたからだと思います。
卵1個の価格は当時と現在とであまり変わっていないので、物価の優等生と言われるのですね。

このように公設市場で買い物をすることが普通だったころ、家から自転車で15~20分のところにある千林商店街の一角に「主婦の店ダイエー」ができました。後の「ダイエー」です。
インターネットで調べると、千林商店街のダイエーは創業店で1957年に出店したとあります。(僕が小学3年生の時です)
僕がこのダイエー千林店を見たのは中学生になってから(1961年)のことでした。千林商店街にはたまに行くことがあり、そのついでに、評判になっていたダイエーを見ようと思ったからでした。
店の中には入らず、外から見ただけですが店先には野菜が並べられており八百屋さんかと思いました。
お客は多く結構繁盛していました。ものが安いという評判でしたが、価格を比べられるほどの比較データを持っていなかったので、どれだけ安かったのかはわかりませんでした。

僕が高校生ぐらいまでは、母親は食料品は公設市場をメインにして買い物をしていたようです。ただ、この頃になると、八百屋、肉屋、荒物屋、小間物屋などが単独の店舗をもつようになっていましたし、今のスーパーマーケットに近い形の店舗も見かけるようになりました。
八百屋で果物を売ることにも違和感がなくなってきました。(公設市場では八百屋と果物屋は別々の店でしたので)

その後は良く知られているようにスーパーマーケットが急拡大し、従来の公設市場に取って代わっていったようです。