takegrigriの今昔物語

団塊世代のじじぃが昭和時代から見てきたことを書いています

初めてテレビを見たのは

前にも書いたように、僕の家にテレビが設置されたのは僕が小学4年生の時(1958年)でした。
テレビの本放送が始まったのが昭和28年(1953年)だそうなので、本放送から5年後でした。
父の商売が順調になったことに伴ってテレビを買うことができたようです。ただ、家は狭くて安普請の借家のままでした。

僕が初めてテレビを見たのは、僕が4,5歳の頃(1953年~1954年)でおそらくテレビの本放送が始まって間もないころだったと思います。
場所は、最初の借家の大家さんの家でした。大家さんには子供がなく、たまに借家の子供を自分の家に呼んでくれることがありました。
借家は大家さんの大きな敷地内にあり、8軒ほどの長屋構成でした。すべて2間づくりの家になっているようでした。
今考えると、長屋は戦前には小作人の人たちが住んでいたのではないかと思います。
長屋の子供たちのなかで僕が男の子では一番の年長だったのでテレビを見せてあげようと思ったのかもしれません。
テレビには勝新太郎主演の映画「マラソン侍」が映っていました。このことをよく覚えているのは、この「マラソン侍」という映画を以前父と映画館で観たことがあったからです。
テレビを見てすごいという感動はありませんでした。
初めて見たテレビなのにあまり感動しなかったのは、映画で見た「マラソン侍」と同じものをやっていたこと、さらに映画より画面が小さいことに気を取られテレビのすごさを理解できなかったためです。大家さんも僕の反応にガッカリしたかもしれません。

長屋には10人ほどの子供たちがおり、正月には大家さんが自宅(お屋敷)の縁側に子供たちを集め、お菓子やおもちゃをプレゼントしてくれました。
子供たちが笑顔で映っている写真が今でも僕の手元に残っています。父によると大家さんのカメラは「ライカ」で当時の高級カメラだそうです。

次にテレビを見たのは小学1年生の時(1955年)でした。
同級生のT君が相撲をテレビで見ないかと級友3人ほどを自宅に招いてくれました。
いつもラジオで聞いてその姿を想像するだけであったのが、実際に動いている力士の姿を見ることができるのにはすごく感激しました。
それから何回かT君の家で相撲観戦を楽しませていただきました。

テレビはその頃のサラリーマンの平均給料の半年分以上の価格だったので、T君の家はお金持ちだったのでしょう。
その後、サラリーマンの平均給料は上昇し、テレビの価格も徐々に下がってきたので誰もが買えるようになってきました。

テレビが家に来てからは、僕はテレビっ子になりました。宿題を済ませると寝るまでテレビにかじりついていました。
当時の大阪では、NHKNHK教育、民放が4局(ひょっとして最初のころは3局かも)が放送されており、飽きることはありませんでした。