takegrigriの今昔物語

団塊世代のじじぃが昭和時代から見てきたことを書いています

映画は娯楽の王様だった

僕の家にテレビが来るまでは、最大の娯楽は映画でした。
ラジオも楽しいものでしたが僕の中では映画に勝るものではありませんでした。

僕の家から歩いて行くことができる映画館は、東宝系、東映系、日活系の三館があり、自転車で行ける範囲に松竹系、大映系の映画館がありました。
洋画は大阪の梅田まで行かないと観ることはできませんでしたが、普段は邦画だけで十分満足していました。

僕の記憶の中にある一番古い映画は「ゴジラ」です。この「ゴジラ」は、ウィキペディアによると封切が1954年11月ということです。
年末か正月のどちらかに家族で観に行った記憶があるので幼稚園児の時に観たことになります。記憶では正月だったと思っています。
映画館は正月(または年末)ということで超満員で立ち見で観ることになりましたが、幼かった僕は大人の人が大勢いる立ち見の位置からではスクリーンのほとんどが見えませんでした。この頃の映画館の超満員というのは観客席の後方の観音開きのドアが立ち見の観客に押されて少し隙間ができ、暗い映画館の中にそこだけ光が入り込んでいる状態です。映写中に光が入るとまずいので映画館の人が外からドアを押して閉めようとすると中の観客から「押すな!」という声が上がります。当時の映画は最高の娯楽でしたので、お盆や年末年始、あるいは話題の映画の封切直後の日曜日はこのような状態がよくありました。

ゴジラ」の映画のときは父親が僕を肩車をしてくれたのですが、父も肩車をすると疲れるのでそのたびに肩車から降ろされます。そのため、映画の内容は断片的にしか観ていません。でも、音声は聞こえているので、ストーリーはだいたい把握できました。映画の最後に潜水服を着た人がゴジラに爆発物を仕掛け、自分の潜水服に付けられた空気を送る管を自ら切断しゴジラとともに死んでいくシーンは観ることができました。いまだに薄っすらとですが記憶に残っています。

当時良く見た映画は東映の時代劇でした。日本初のシネマスコープの映画「鳳城の花嫁」も観ました。スクリーンが従来よりも左右に長く、初めの頃はスクリーンの左右の端から端まで観るのに戸惑いました。当時は2作品の映画を観ることができる2本立てでしたので、一つがシネマスコープサイズ、もう一つが通常のサイズということがあり、通常のサイズの映画の時は緞帳が左右から閉まってきて通常のサイズのスクリーン部分だけが現れるようにしていました。
「鳳城の花嫁」の内容は憶えていませんが、大友柳太朗が主演したことは憶えています。大友柳太朗は大川橋蔵と並んで僕の好きな俳優でした。丹下左膳やむっつり右門などが好きでした。

僕の家の近くにある東映系の映画館は、日曜日は朝の9時前から上映しており、昼ごろ行くと満員で座席が確保できないので、朝一番で行くと最初の映画は必ず映画の後半から始まるのです。1本目の映画の後半が終わると、2本目の映画が最初から上映されます。そして2本目の映画が終わると1本目の映画が最初から上映されるシステムになっていました。
父と一緒に映画を観に行くのですが、父はせっかちなので、1本目の映画の後半、2本目の映画全部、1本目の映画の前半までを観ると、もう全部観たから帰るというのです。僕としては1本目の映画を前半後半通して観たいのですが、父が帰るというので一緒に帰るのが常でした。

小学生の時(1955年~1961年)は、観る映画のほとんどは東映系(時代劇)でしたが、石原裕次郎の映画「風速40米」が観たくて一度だけ日活系の映画館に行きました。石原裕次郎はカッコいいと聞いていたので一度映画で観たかったのです。父はこの手の映画は好みではなかったので、勇気を出して一人で観に行きました。小学4年生の時でした。評判通りやっぱり石原裕次郎はカッコいいと思いましたが、映画館で石原裕次郎を観たのはこれが最初で最後でした。石原裕次郎はカッコよかったのですが、映画の内容についていけなかったためだと思います。

家にテレビが来てからは映画館に行く回数はぐっと減りましたが、中学生になって「ゴジラ」シリーズで東宝系の映画館に行くことはありました。
大映系では市川雷蔵の「眠狂四郎」の映画を観た記憶はあります。松竹系の映画館には行った記憶はあるのですが、どんな作品を観たのかは記憶がありません。ただ、松竹系の映画で高田浩吉が出演していた時代劇を観た記憶はあります。

上でシネマスコープのことを書きましたが、大阪梅田にはシネマスコープよりもスクリーンが大きな「シネラマ」がありました。
これは3台の映写機で映写し、一つの大スクリーン上で右・中・左の映像をつなぎ合わせて一つの映像にするものです。
梅田のOS劇場で家族揃って観ました。これは世界の七不思議を映したものでしたが、ウィキペディアで調べると「世界の七不思議」という内容そのもののタイトルだそうです。
上映前の映画館内の照明で入学祝の腕時計をきらきらさせて喜んでいた記憶がありますので、僕の高校入学祝に梅田に出てシネラマを観に行ったのだと思います。1964年です。
これよりも何年か前に祖父が来たときに一度シネラマを観た記憶があります。うっすらと憶えている記憶から、ウィキペディアに載っている「これがシネラマだ」というタイトルの映画を観たのだと思います。

洋画を映画館で観るようになったのは高校を卒業(1967年)してからです。
この頃には歩いて行けるところに、古い洋画の3本立てを低料金で観ることができる映画館ができており(邦画館が洋画館に変わった)、月に1回ぐらいのペースで行っていました。
この頃観た「The Pink Panther」は「ピンクの豹」という邦題がついていました。最初「ピンクの豹」って何系の映画なのかと思いました。
ハリウッド映画以外にも、フランス映画やイタリア映画などがたまに含まれており、それぞれの面白さがありました。

僕が中学生の時(1961年~1964年)は「テレビ名画座」というテレビ番組で毎日夕方に古い洋画を放映しており、中学校から帰ってから毎日それを観ていました。そこにもフランス映画やイタリア映画などが含まれていて、ハッピーエンドではない終わり方をする作品もときどきありました。
多感な中学生時代にハッピーエンドではない映画をある程度の本数を観たことは僕にとって良い財産だと思っています。