takegrigriの今昔物語

団塊世代のじじぃが昭和時代から見てきたことを書いています

競馬(2)ハイセイコー

1973年、僕が社会人1年目の終わりごろに「ハイセイコー」という馬が中央競馬に現れました。
ハイセイコー」は大井競馬場という公営競馬場で走っていた馬でしたが、そこでは圧倒的な強さで勝ち続け6連勝していました。
怪物と言われるほどの強さでしたので、格上と言われている中央競馬に移籍してどれほどの成績が残せるか皆興味津々でした。

僕が入社してからの友達であるE君は僕の影響で競馬を始めたのですが、この「ハイセイコー」が走るところを生で観てみたいので一緒に中山競馬場に行かないかと誘ってきました。僕はテレビ観戦の方が馬を良く観ることができるのでちょっと躊躇しましたが、怪物と言われる馬を実際に見てみるのも悪くはないかと思いE君と一緒に中山競馬場まで出向きました。
ハイセイコー」が出走するレースは「弥生賞」という重賞レースで、「皐月賞」、「ダービー」、「菊花賞」という三冠レース中の「皐月賞」のための前哨戦でした。
当日の中山競馬場は今まで観たこともないほど多くの入場者で、後から新聞などを見ると12万人が押し寄せたということです。前代未聞の数でした。
普段ならパドックというレース前に出走馬の状態を見せる場所に行って馬の状態を見て馬券を買うのですが(本当は僕なんかが馬を見ても馬の状態など詳細には分からない)、あまりにも人が多いので、そんなことをしていると肝心の「ハイセイコー」のレースを見られなくなると思い、パドックにもいかず、馬券も買わずに、前のレースが終わってすぐに一番前でレースを見られる位置を確保しました。
現在ではターフビジョンという大きなディスプレイがあり、遠くの観客席からでも馬が走っている様子をディスプレイで見ることができますが、当時はそのようなものはなく肉眼か双眼鏡で走っている馬を観るしかありませんでした。
そのため、ゴール手前の直線に馬が来たときには後ろの方の観客は前の人が邪魔で馬が見えないのでぴょんぴょん飛び跳ねながらレースを観戦していたものでした。

こうして、僕とE君は一番前で「ハイセイコー」がゴール手前の直線に来るのを待っていました。「ハイセイコー」が直線に入ってきて中山競馬場の直線に設けられた坂を駆け上がってきて先頭に立ち、そのまま他馬をぶっちぎるかと思ったのですが、意外と伸びずに勝つには勝ったのですが怪物と言われたほどのすごさは感じませんでした。競馬場に詰めかけた多くの観客も同じ感想を持ったようで、すごいものを見に来たはずなのに「ん?」「え?」というような拍子抜けした雰囲気でした。
E君もそう思ったらしく、僕に「どう?ハイセイコーは強いの?」と聞いてきましたが、僕も「うーん。正直今日のレースでは強いかどうかわからへんなぁ。芝のコースは初めてだし」と答えるしかありませんでした。
しかし「ハイセイコー」はそのあと重賞の「スプリングステークス」と最初の三冠レース「皐月賞」も勝ち、次の重賞「NHK杯」も勝ち、無敗のままで三冠レースの中心「ダービー」を迎えることになりました。
この頃には、最初にあった「それほど強くないのでは」という評価が薄れ、「やっぱり強い」という評価が多くなりましたが、「怪物というほどではない」と言う人も結構いました。
しかし、無敗で「ダービー」に臨むわけですから世間では「ハイセイコー」ブームが起き、普段競馬に関心がない人でも「ハイセイコー」の名前は知っているという社会現象となりました。
ある雑誌の漫画で、「ハイセイコー」ならぬ「ハイシチズン」という馬が登場したりして、ちょっと笑ってしまいました。

ハイセイコー」はその後勝ったり負けたりしましたが、いつも話題の主役の位置にいました。「ハイセイコー」が引退するとき騎手の増沢が「さらばハイセイコー」という歌を唄いこれもヒットしました。

シンザン」は戦後初の三冠馬となり競馬界を盛り上げましたが、「ハイセイコー」はそれまで特殊な世界だと思われていた競馬を一般社会に認識させた最初の馬という点で大変大きな功績を残した馬だったと思います。
僕自身はその頃も関西馬を応援していたので「ハイセイコー」のファンではありませんでしたが、「ハイセイコー」が競馬界に貢献したことは評価しています。

ハイセイコー」の次に一般社会、特に女性にまで競馬を認識させた馬は1988年の「オグリキャップ」まで待つことになります。