takegrigriの今昔物語

団塊世代のじじぃが昭和時代から見てきたことを書いています

就職試験、上京、そして大阪との違いを感じたこと

今は3月。
4月から社会人として、あるいは新入学生として上京する人も多いと思います。
今はその準備をしているところでしょうか。

僕は地方の大学を卒業し、地元である大阪に就職することも考えましたが、何か東京に行ってみたいという漠然とした希望があって東京の企業に就職しました。
僕は学生時代の成績が悪かったので、普通なら就職に苦労するところでしたが、世は高度経済成長時代で、しかも高望みをしなかったので幸運にもすんなりと就職することができました。高度経済成長期に団塊の世代が就職という、今考えても本当に幸運なめぐり合わせだったと感謝しています。世の中が違って、団塊の世代が卒業する時に不況だったら失業者があふれて大変なことになっていたことでしょう。

当時(1971年)の就職試験は大学4年生の4月から行われていて、大学4年生になってすぐの時はクラスのそれぞれが就職試験のため東京、大阪に行っており、講義はいつもクラスの誰かがいない状態でした。
試験は1次が筆記試験、それに合格すると別の日に2次で面接試験となっていて、2次の結果で採用・不採用が決まりました。
僕は理系でしたが、理系は就職試験ではほぼ全員が1社目で内定をもらえる時代でした。1社目で落ちても2社目で内定をもらえない人はいませんでした。2社目で内定をもらう人でも6月初めには結果が出ていました。
そのため、理系の学生は就職試験で複数の会社を同時に受けてはいけないという不文律がありました。1社目の合格が決まったら他社を受けないという不文律もありました。ですから、就職試験では受験する会社がほぼ第一志望の会社ということになります。
これは僕の大学が地方校であったからかもしれません。首都圏、近畿圏の大学ではまた違った状況だったかもしれません。
いずれにしても今と比べると夢のような時代でした。

だだ、企業の内定が出た後で、「ドルショック(ニクソンショックともいいました)」が起きました。(1971年8月)
これにより経済が悪化する懸念が大きくなり、実際に経済は停滞しました。(経済の停滞はドルショックだけのせいではないという人も多くいます)
僕は就職が内定していたのでのんきにしていましたが、内定をいただいた企業から1972年初めに「ドルショックで景気が悪くなっているが、採用することに変わりはないから安心するように」という趣旨の手紙を戴きました。
僕は、親切な会社だと感心するとともに、ドルショックの影響はかなり大きなものなんだと実感しました。
このドルショックがもう少し早く起きていたら、僕たちの採用状況も大きく変わっていたと思います。やっぱり幸運だったと思わざるを得ません。

1972年3月末に上京し、4月から社会人となって働き始めました。
この時、東京に来て大阪と違うなぁと感じたことは3つありました。

(1)人の歩く速度が遅い
大都会東京というからさぞかし人はせかせかと忙しく早く歩いているのかと思っていましたが、全く逆で大阪の人に比べて何と歩くのが遅いことか!
人が多いということで早く歩くと人とぶつかるのでゆっくり歩いているのかと思いましたが、人が少ないところでもゆっくり歩いています。
僕がせっかちということもありますが、それにしても歩く速度が遅く、前に人が歩いているときはいらいらしました。

(2)東京は緑が多い
大阪と比べて東京は中心部でも緑が多いことに驚きました。
新宿御苑日比谷公園明治神宮周辺などあちこちに木々があり、都会の喧騒をいやす場所が多いことに感心しました。人口が多いところには多くの緑が必要なんだと改めて思いました。
今の大阪は緑が増えているのかな?

(3)電車の網棚に物を置く人が多い
大阪では電車の網棚に物を置く人はほとんどいませんでした。
しかし、東京では通勤電車で網棚に鞄・バッグなど物を置く人は多く、網棚に空きがなくて仕方なしに手で持っている場合もあります。
これは東京と大阪の電車の混雑度の違いかなと考えましたが、すいている電車でも東京の人は網棚に物を置くので、混雑度の違いではないようです。
東京に来た当初、網棚に荷物を置くことに抵抗がありました。何か不安でした。物を盗られるという不安ではないのですが、何か落ち着かないのです。手に持っていた方が安心するのです。しかし、そのうちに慣れてきて数か月後には網棚に荷物を置くようになりました。

その他、東京と大阪の違いには、そばのつゆが真っ黒で中の麺が見えなくてびっくりしたことなどがあります。
大阪ではうどんつゆの色は薄く、麺が見えないということはまずありません。

ともあれ、このあと40数年東京で働くことになりました。