takegrigriの今昔物語

団塊世代のじじぃが昭和時代から見てきたことを書いています

初めてのリコーダー:リコーダー教育最初の世代

僕は音楽が苦手でした。自分で音程が取れないのです。
自分が音痴であると知ったのは小学校一年生の時(1955年)でした。
参観日の後、母が先生と面談して帰ってきて、先生から「takegrigriちゃんはいつも元気よく大きな声で歌ってくれるのですが、ちょっと音程が外れています」と言われたと知らされました。子供心に、僕が大きな声で歌うのは恥ずかしいことなのだと思うようになりました。
それからは音楽の時間で歌うときは小声で歌うようになりました。幸い音楽の授業中に一人で歌う場面はありませんでした。

僕が小学校5年(1959年)か6年(1960年)の時、リコーダーの授業が始まりました。おそらく僕たちがリコーダー教育の最初の世代ではないかと思っています。
当時はリコーダーと言わず「たて笛」と言っていた記憶があります。当時たて笛として知られていたものは竹でできたものであり、今度授業で使うたて笛はそれとは違うということでした。そのためリコーダーを見たことがある生徒はほとんどいませんでした。
リコーダーを購入する前にリコーダーとはどういうものかを生徒たちに体験させる授業がありました。
担任の先生が50本ほどのリコーダーをまとめて持ってきました。学校の中の各クラスでこの50本のリコーダーを使いまわしてリコーダーを体験させるのです。
他人が使ったリコーダーをそのまま使うのは嫌だなぁと思っていたところ、担任の先生が湯飲み茶わんにアルコールを入れて各自に配られたリコーダーの歌口をつけるように回ってきました。僕は神経質なので結構長めにアルコールに歌口を浸けました。
そして、リコーダーを教えに来た先生がドレミファソラシドの音の出し方を教えてくれました。

それからすぐにリコーダーを購入することになりましたが、経済的に余裕がない家庭の生徒には、リコーダーが貸し出されました。もちろんその都度アルコールは用意されていました。
リコーダーの授業では一番簡単な曲(「きらきら星」だったか、「さくらさくら」だったか憶えていません)を吹く練習をしましたが、リコーダーを使う授業は多くありませんでした。音楽的能力が全くない僕は楽譜を見ても吹けないし、まして音を探しながら曲を演奏することもできず、せっかく購入したリコーダーですがほとんど使わずに自宅に置かれたままでした。
僕の弟は音を探しながら曲を演奏できるので、いつも羨ましく思っていました。弟に教えてもらうのですが、演奏したい曲の音階が今の音より上なのか下なのかもわからないので、弟も僕に教えるのは難しかったようです。

また、中学校ではリコーダーを使う音楽の授業がなかったので、結局僕はリコーダーが吹けないままです。
僕はハーモニカも吹けないので、音楽的能力はゼロです。