takegrigriの今昔物語

団塊世代のじじぃが昭和時代から見てきたことを書いています

ハンバーグとハンバーガー

もう40数年ぐらい前からハンバーグもハンバーガーも日本人にはなじみのある食べ物ですが、僕が高校生時代(1964年~1967年)以前ではそれほど一般的な食べ物ではありませんでした。
歌手の菅原洋一がテレビ番組「夜のヒットスタジオ」の司会者の前田武彦からハンバーグというあだ名をつけられたとき、僕はハンバーグがどういう食べ物であるか知りませんでした。それは、母親がそのようなおしゃれな料理を作ることができないこと、大学時代僕が貧乏学生で学食だけで三食を食べていたことが理由です。学生時代は地方都市にいましたが、おそらくその地方でも普通のレストランではハンバーグもメニューにあったのではないかと思います。

1970年か71年だったと思いますが、大学の学食にハンバーグ定食が登場しました。通常の昼の定食が120円だったのですが、ハンバーグ定食はその倍の240円でした。ハンバーグというものを一度食べてみたくて、自分の誕生日に一人でハンバーグ定食を注文して食べてみました。普段は友達と一緒に食べるのですが、一人だけハンバーグ定食を食べると友達にからかわれそうなので時間を少しずらして一人で食べました。
出てきたハンバーグは楕円形に形成された黒焦げのミンチ肉で、味はなく、食感はパサパサしておりとても美味しいとは思えませんでした。サラダがついていたのですがそのドレッシングが口に合ったのが唯一の救いでした。こんなもので昼の定食の2倍の金をとるのかと腹が立ちました。
こんなものをどうしてテレビなんかで美味しい食べ物として話をしているか不思議でした。
テレビなどではハンバーグは美味しいという前提で話をしているので、ひょっとしてこのとき食べたハンバーグは調理をする人が何かを間違えて失敗したものではなかったのかと思うようになり、半年後ぐらいにもう一度ハンバーグ定食を学食で食べましたが、やはり出てきたものはパサパサで味のない黒焦げのミンチ肉でした。
これで、僕はハンバーグというものは美味しくないものだ、これを食べるのはお金の無駄だと思うようになりました。

社会人になって、E君(ハイセイコー中山競馬場まで一緒に見に行った友人)が「ハンバーグの美味しい店があるから食べに行かないか」と誘ってきました。E君は僕と同じ技術職で別の職場にいましたが入社時の研修所時代から気の合う友達でした。
僕は学生時代の記憶からハンバーグは美味しくないものと思っていましたが、東京の店で出すハンバーグを食べてみたいとも思いました。
こうして僕はE君に案内されて銀座のA店に行きました。1974年ごろだったと思います。
A店で食べたハンバーグは黒焦げではなく、ふっくらとしていて、そして僕の予想をはるかに超えて美味しいものでした。驚きました。ハンバーグってこんなに美味しいものなんだ、学食で食べたハンバーグは何だったのかと思いました。
A店のハンバーグ定食は1974年当時で980円でした。当時と現在の初任給比でいえば3~4倍になるので現在では約3000~4000円ぐらいの感覚でしょうか。僕の安月給では頻繁には食べに行けませんでしたが、美味しかったのでその後一人でもう一度食べに行きました。

結婚して、妻と一緒にA店のハンバーグ定食を食べに行きましたが、妻も本当においしいと喜んでくれました。
それから何年かたって給料が少し上がったころ、A店のハンバーグ定食を食べたくなって妻と一緒にA店を訪れましたが別の店になっていました。
美味しいと思っていた店でしたが、なぜやめてしまったのか不思議でしたし、残念でした。

一方、ハンバーガーは、その存在自体は僕の中学生時代(1961年~1964年)にテレビで放映されていた「ポパイ」のアニメで知っていました。「ポパイ」の中に登場するハンバーガー大好きおじさん「ウィンピー」は常に片手にハンバーガーをもっていて、あまり表情を変えずに食べているのでそれほど美味しいものではないのではないかと思っていました。このころは僕の周辺でハンバーガーを売っているところもなく、どんな食べ物なんだろうと想像するしかありませんでした。

僕が初めてハンバーガーを食べたのは上京して社会人となってからです。1974、5年頃だと思いますが、銀座の歩行者天国に行ったときに三越の1階にあるマクドナルドでチーズバーガーを買って歩行者天国の中を歩きながら食べました。味はA店でハンバーグを食べたときほどの驚きはなく、あぁこういう味かという感想でした。ただ、中学生時代からずっと想像していたハンバーガーをやっと食べることができたという実感が湧きました。
マクドナルドの銀座店は三越の1階の外側にあり道路に面していましたが、三越のお客がマクドナルドに隣接するデパートのドアを開ける度にハンバーガーの肉が焼けたにおいが三越店内に入り込み、1階はハンバーガーのにおいが充満していました。しかも1階のそのドア近くには婦人服売り場があって、肉を焼いたにおいが展示してある婦人服に付かないのか他人事ながら心配になりました。


あれから40数年経ちその間いろいろなハンバーグやハンバーガーを食べましたが、味の流行は時代に合わせ少しずつ変化してきているようです。また自分も歳を取って好みも変わってきたと思いますが、今あのA店のハンバーグを食べたらどういう感想になるのかと想像するときがあります。

競馬(2)ハイセイコー

1973年、僕が社会人1年目の終わりごろに「ハイセイコー」という馬が中央競馬に現れました。
ハイセイコー」は大井競馬場という公営競馬場で走っていた馬でしたが、そこでは圧倒的な強さで勝ち続け6連勝していました。
怪物と言われるほどの強さでしたので、格上と言われている中央競馬に移籍してどれほどの成績が残せるか皆興味津々でした。

僕が入社してからの友達であるE君は僕の影響で競馬を始めたのですが、この「ハイセイコー」が走るところを生で観てみたいので一緒に中山競馬場に行かないかと誘ってきました。僕はテレビ観戦の方が馬を良く観ることができるのでちょっと躊躇しましたが、怪物と言われる馬を実際に見てみるのも悪くはないかと思いE君と一緒に中山競馬場まで出向きました。
ハイセイコー」が出走するレースは「弥生賞」という重賞レースで、「皐月賞」、「ダービー」、「菊花賞」という三冠レース中の「皐月賞」のための前哨戦でした。
当日の中山競馬場は今まで観たこともないほど多くの入場者で、後から新聞などを見ると12万人が押し寄せたということです。前代未聞の数でした。
普段ならパドックというレース前に出走馬の状態を見せる場所に行って馬の状態を見て馬券を買うのですが(本当は僕なんかが馬を見ても馬の状態など詳細には分からない)、あまりにも人が多いので、そんなことをしていると肝心の「ハイセイコー」のレースを見られなくなると思い、パドックにもいかず、馬券も買わずに、前のレースが終わってすぐに一番前でレースを見られる位置を確保しました。
現在ではターフビジョンという大きなディスプレイがあり、遠くの観客席からでも馬が走っている様子をディスプレイで見ることができますが、当時はそのようなものはなく肉眼か双眼鏡で走っている馬を観るしかありませんでした。
そのため、ゴール手前の直線に馬が来たときには後ろの方の観客は前の人が邪魔で馬が見えないのでぴょんぴょん飛び跳ねながらレースを観戦していたものでした。

こうして、僕とE君は一番前で「ハイセイコー」がゴール手前の直線に来るのを待っていました。「ハイセイコー」が直線に入ってきて中山競馬場の直線に設けられた坂を駆け上がってきて先頭に立ち、そのまま他馬をぶっちぎるかと思ったのですが、意外と伸びずに勝つには勝ったのですが怪物と言われたほどのすごさは感じませんでした。競馬場に詰めかけた多くの観客も同じ感想を持ったようで、すごいものを見に来たはずなのに「ん?」「え?」というような拍子抜けした雰囲気でした。
E君もそう思ったらしく、僕に「どう?ハイセイコーは強いの?」と聞いてきましたが、僕も「うーん。正直今日のレースでは強いかどうかわからへんなぁ。芝のコースは初めてだし」と答えるしかありませんでした。
しかし「ハイセイコー」はそのあと重賞の「スプリングステークス」と最初の三冠レース「皐月賞」も勝ち、次の重賞「NHK杯」も勝ち、無敗のままで三冠レースの中心「ダービー」を迎えることになりました。
この頃には、最初にあった「それほど強くないのでは」という評価が薄れ、「やっぱり強い」という評価が多くなりましたが、「怪物というほどではない」と言う人も結構いました。
しかし、無敗で「ダービー」に臨むわけですから世間では「ハイセイコー」ブームが起き、普段競馬に関心がない人でも「ハイセイコー」の名前は知っているという社会現象となりました。
ある雑誌の漫画で、「ハイセイコー」ならぬ「ハイシチズン」という馬が登場したりして、ちょっと笑ってしまいました。

ハイセイコー」はその後勝ったり負けたりしましたが、いつも話題の主役の位置にいました。「ハイセイコー」が引退するとき騎手の増沢が「さらばハイセイコー」という歌を唄いこれもヒットしました。

シンザン」は戦後初の三冠馬となり競馬界を盛り上げましたが、「ハイセイコー」はそれまで特殊な世界だと思われていた競馬を一般社会に認識させた最初の馬という点で大変大きな功績を残した馬だったと思います。
僕自身はその頃も関西馬を応援していたので「ハイセイコー」のファンではありませんでしたが、「ハイセイコー」が競馬界に貢献したことは評価しています。

ハイセイコー」の次に一般社会、特に女性にまで競馬を認識させた馬は1988年の「オグリキャップ」まで待つことになります。

一番古い記憶

僕が思い返して一番古い記憶は幼稚園に入るちょっと前の記憶です。
もっと古い記憶もあるのですが、それはごく断片的なものだったり、あるいは親からあなたの小さいときはこうだったと言われたのを自分の記憶として持っているものかもしれないので今回は外します。

当時の幼稚園は1年保育が多く、僕が通っていた幼稚園では6クラスのうち1年保育が5クラス、2年保育が1クラスでした。3年保育はありませんでした。
僕は1年保育組でした。
ですから、僕の一番古い記憶は幼稚園入園前の5歳の誕生日後ぐらいの時の記憶となります。

幼稚園入園前に簡単な面接テストがありました。
面接テストを受ける前に両親からお行儀よくしなさい、両手は膝の上にずっと置いておきなさいと言われました。
試験は簡単なもので、車輪の1つが描かれていない自動車の絵があり、この絵で何か変なところはないかと尋ねるものでした。
僕は両親から手は膝の上にずっと置いておきなさいと言われていたので、手を膝の上から離してはいけないと思いアゴで車輪がないところを指し示そうとしました。すると、両親と面接の先生の双方から指で教えてねと言われ、なんだ手を膝の上から離して良いのか、それなら最初に手を膝の上に置いておきなさいというのは何だったんだと戸惑いました。これが僕が鮮明に憶えている一番古い記憶です。
もちろん、その他にもいろいろなことを聞かれました。動物や物が描かれた絵を見てこれは何ですかとか、自分の名前や一緒に良く遊ぶお友達の名前を尋ねるような面接でした。
今の子供たちなら3年保育の入園テストでも出ないような問題です。

幼稚園時代のことはあまり記憶がありません。写真があるので、奈良の若草山に遠足に行ったとか芋掘りに行ったとか、学芸会で因幡の白うさぎのウサギの役やぶんぶく茶釜の和尚さんの役をやったことは後付けの記憶にはありますが、それらのうち僕の実体験として記憶しているものは断片的なものでしかありません。

幼稚園時代に僕の実体験の記憶としてきちんと残っているものは数少ないです。
ひとつは、幼稚園で友達と相撲を取って遊んでいた時、投げられて頭を地面にぶつけて思わず泣いてしまったとき相手の友達がどうしていいか分からず戸惑った顔をしていて、僕が泣いてしまったことが申し訳ないと思ったことです。
その他の記憶としては、僕は幼稚園卒園間際までひらがなが読めなかったことです。もちろん自分の名前も読み書きできませんでした。
幼稚園では図画の時間は担任ではない別の先生が指導に来るようになっていました。
自分が描いた絵には自分で名前を書くのですが、僕は自分で名前を書けないので、図画の先生が代わりに僕の名前を書いてくれます。ただ、僕は滑舌が悪いので僕が自分の名前を口頭で言うと、いつも間違って聞き取られてまったく別の名前を書かれてしまい、よく両親から笑われていました。
幼稚園では卒園間近にひらがなの読み書きを練習する時間が設けられており、小学校入学直前でやっと僕もひらがなの読み書きができるようになりました。このとき、「れ」や「わ」や「ね」などの字が書きにくいなぁと思った記憶があります。
今の子供たちは2歳ぐらいでひらがなを読めるのですごいなぁといつも感心しています。

僕が通っていた幼稚園は当時(1954年)では珍しかった園児送迎バスがあり、それで送り迎えをしてくれました。
ごくたまに園児送迎バスが帰りだけ出ない時があり、その時は担任の先生がクラスの園児たちと一緒に歩いてそれぞれの家の近くまで送ってくれました。僕の家と幼稚園は普通に歩いて10分ぐらいですが幼稚園児の足では15分以上かかったと思います。雨の日に歩いて帰った記憶はないので、送迎バスがどういう理由で稼働しなかったかは分かりません。
小学校に入って分かりましたが、幼稚園に行っていない子もクラスに何人かいました。うちの家は裕福ではありませんでしたが幼稚園に通わせてくれた親に感謝しています。結構無理をしてくれたのだと思います。

映画は娯楽の王様だった

僕の家にテレビが来るまでは、最大の娯楽は映画でした。
ラジオも楽しいものでしたが僕の中では映画に勝るものではありませんでした。

僕の家から歩いて行くことができる映画館は、東宝系、東映系、日活系の三館があり、自転車で行ける範囲に松竹系、大映系の映画館がありました。
洋画は大阪の梅田まで行かないと観ることはできませんでしたが、普段は邦画だけで十分満足していました。

僕の記憶の中にある一番古い映画は「ゴジラ」です。この「ゴジラ」は、ウィキペディアによると封切が1954年11月ということです。
年末か正月のどちらかに家族で観に行った記憶があるので幼稚園児の時に観たことになります。記憶では正月だったと思っています。
映画館は正月(または年末)ということで超満員で立ち見で観ることになりましたが、幼かった僕は大人の人が大勢いる立ち見の位置からではスクリーンのほとんどが見えませんでした。この頃の映画館の超満員というのは観客席の後方の観音開きのドアが立ち見の観客に押されて少し隙間ができ、暗い映画館の中にそこだけ光が入り込んでいる状態です。映写中に光が入るとまずいので映画館の人が外からドアを押して閉めようとすると中の観客から「押すな!」という声が上がります。当時の映画は最高の娯楽でしたので、お盆や年末年始、あるいは話題の映画の封切直後の日曜日はこのような状態がよくありました。

ゴジラ」の映画のときは父親が僕を肩車をしてくれたのですが、父も肩車をすると疲れるのでそのたびに肩車から降ろされます。そのため、映画の内容は断片的にしか観ていません。でも、音声は聞こえているので、ストーリーはだいたい把握できました。映画の最後に潜水服を着た人がゴジラに爆発物を仕掛け、自分の潜水服に付けられた空気を送る管を自ら切断しゴジラとともに死んでいくシーンは観ることができました。いまだに薄っすらとですが記憶に残っています。

当時良く見た映画は東映の時代劇でした。日本初のシネマスコープの映画「鳳城の花嫁」も観ました。スクリーンが従来よりも左右に長く、初めの頃はスクリーンの左右の端から端まで観るのに戸惑いました。当時は2作品の映画を観ることができる2本立てでしたので、一つがシネマスコープサイズ、もう一つが通常のサイズということがあり、通常のサイズの映画の時は緞帳が左右から閉まってきて通常のサイズのスクリーン部分だけが現れるようにしていました。
「鳳城の花嫁」の内容は憶えていませんが、大友柳太朗が主演したことは憶えています。大友柳太朗は大川橋蔵と並んで僕の好きな俳優でした。丹下左膳やむっつり右門などが好きでした。

僕の家の近くにある東映系の映画館は、日曜日は朝の9時前から上映しており、昼ごろ行くと満員で座席が確保できないので、朝一番で行くと最初の映画は必ず映画の後半から始まるのです。1本目の映画の後半が終わると、2本目の映画が最初から上映されます。そして2本目の映画が終わると1本目の映画が最初から上映されるシステムになっていました。
父と一緒に映画を観に行くのですが、父はせっかちなので、1本目の映画の後半、2本目の映画全部、1本目の映画の前半までを観ると、もう全部観たから帰るというのです。僕としては1本目の映画を前半後半通して観たいのですが、父が帰るというので一緒に帰るのが常でした。

小学生の時(1955年~1961年)は、観る映画のほとんどは東映系(時代劇)でしたが、石原裕次郎の映画「風速40米」が観たくて一度だけ日活系の映画館に行きました。石原裕次郎はカッコいいと聞いていたので一度映画で観たかったのです。父はこの手の映画は好みではなかったので、勇気を出して一人で観に行きました。小学4年生の時でした。評判通りやっぱり石原裕次郎はカッコいいと思いましたが、映画館で石原裕次郎を観たのはこれが最初で最後でした。石原裕次郎はカッコよかったのですが、映画の内容についていけなかったためだと思います。

家にテレビが来てからは映画館に行く回数はぐっと減りましたが、中学生になって「ゴジラ」シリーズで東宝系の映画館に行くことはありました。
大映系では市川雷蔵の「眠狂四郎」の映画を観た記憶はあります。松竹系の映画館には行った記憶はあるのですが、どんな作品を観たのかは記憶がありません。ただ、松竹系の映画で高田浩吉が出演していた時代劇を観た記憶はあります。

上でシネマスコープのことを書きましたが、大阪梅田にはシネマスコープよりもスクリーンが大きな「シネラマ」がありました。
これは3台の映写機で映写し、一つの大スクリーン上で右・中・左の映像をつなぎ合わせて一つの映像にするものです。
梅田のOS劇場で家族揃って観ました。これは世界の七不思議を映したものでしたが、ウィキペディアで調べると「世界の七不思議」という内容そのもののタイトルだそうです。
上映前の映画館内の照明で入学祝の腕時計をきらきらさせて喜んでいた記憶がありますので、僕の高校入学祝に梅田に出てシネラマを観に行ったのだと思います。1964年です。
これよりも何年か前に祖父が来たときに一度シネラマを観た記憶があります。うっすらと憶えている記憶から、ウィキペディアに載っている「これがシネラマだ」というタイトルの映画を観たのだと思います。

洋画を映画館で観るようになったのは高校を卒業(1967年)してからです。
この頃には歩いて行けるところに、古い洋画の3本立てを低料金で観ることができる映画館ができており(邦画館が洋画館に変わった)、月に1回ぐらいのペースで行っていました。
この頃観た「The Pink Panther」は「ピンクの豹」という邦題がついていました。最初「ピンクの豹」って何系の映画なのかと思いました。
ハリウッド映画以外にも、フランス映画やイタリア映画などがたまに含まれており、それぞれの面白さがありました。

僕が中学生の時(1961年~1964年)は「テレビ名画座」というテレビ番組で毎日夕方に古い洋画を放映しており、中学校から帰ってから毎日それを観ていました。そこにもフランス映画やイタリア映画などが含まれていて、ハッピーエンドではない終わり方をする作品もときどきありました。
多感な中学生時代にハッピーエンドではない映画をある程度の本数を観たことは僕にとって良い財産だと思っています。

競馬(1)「タニノムーティエ」と「ヒカルイマイ」

先日競走馬の「ディープインパクト」が亡くなったことが新聞、テレビやネットでもニュースとして取り上げられました。
競走馬としては史上最高の馬と讃えられていましたが、種牡馬としても大きな功績があったと報じられました。
ただ僕としては、種牡馬としてはもっと長生きして父の「サンデーサイレンス」の実績を越えてほしかったと思いましたし、それができる唯一の馬だと思っていました。
それだけに残念です。

僕は、父が競馬ファンであったので、競馬のテレビ中継は「シンザン」や「キーストン」の頃から一緒に観ていました。父は僕に「コダマ」の頃から観ていただろうと言っていましたが僕には明確な記憶はありません。
シンザン」が三冠馬になったのは僕が高校1年生の1964年でした。東京オリンピックの年です。
このころは学校の友達で競馬の話しをする人は皆無で、変な奴だと思われたくなくて友達とは競馬の話はしませんでした。

学生は馬券を買えないのですが、強い馬が強い勝ち方をするのを見聞きするのが楽しく親元を離れた学生時代から特に競馬にハマりました。
しかし、僕は地方の大学にいたので、そこではテレビの競馬中継はありませんでした。仕方がないのでスポーツ新聞で中央競馬の記事を毎日のように読んでいてどの馬が強いか情報は仕入れていました。
ただ、地方にいても中央競馬の大きなレースはNHKがテレビ放送をしていましたのでダービーのような大レースはテレビ観戦できました。
競馬ファンにとってはNHKがテレビ放送してくれるのは嬉しいのですが、当時中央競馬に関心がないと思われる(当然馬券を買うこともできない)地方の人にまでNHKがテレビ放送する意味が分かりませんでした。

競馬は、就職して馬券を買える社会人になってからもだいぶ続きましたが、1978年に競走馬の「テンポイント」、1979年に騎手としての「天才福永洋一」を連続して失ってから競馬に興味を持てなくなり、かなりの期間競馬を離れていました。そのため、1984年に無敗の三冠馬となった「シンボリルドルフ」の活躍は見ていません。
地方競馬出身の「オグリキャップ」が中央競馬に来てその活躍が話題になった頃(1988年)から再び少しずつ競馬をテレビで見始めて現在にいたっていますが、馬券を買うことはしなくなりました。競馬場に行くこともありません。

僕は大阪の出身なので、競馬に夢中になっていた頃は関西馬を応援していました。当時の関西馬はいつも関東馬に後れを取っており悔しい思いをしていましたが、その中で「タニノムーティエ」と「ヒカルイマイ」はヒーローでした。
1970年にスポーツ新聞で「タニノムーティエ」の存在を知り、今度出走するレースがスプリングステークスであるとわかったので何とかレースをテレビで観たいと思いましたが、学生時代は貧乏でテレビを持っていませんでした。それでテレビを持っている友達の下宿へ行って見せてもらったのですが、そのテレビも中古のテレビを友人が自分で修理したもので、アンテナも屋根の上につけるべき屋外アンテナを部屋の中においていたものでした。
先ほど書いたように、地方都市では競馬のテレビ中継はカバーされていません。仕方がないので、競馬中継をやっている遠く離れた民放テレビを受信しようと部屋の中で屋外アンテナを持って電波の強い方向を探すという間抜けな姿になってしまいました。しかし、そうやっても画面はほとんど砂嵐に近いものでした。そのような状況でスプリングステークスを観ました。スプリングステークスは重賞という賞金の高いレースですが、NHKで放送されるほどの大レースではありませんでした。
砂嵐の映像の中で、最後の直線で何か黒い塊が鉄砲玉のような速さで飛び込んできて一着になりました。途切れ途切れのテレビの音声では「タニノムーティエ」が勝ったと言っていたようでした。
翌日のスポーツ新聞で「タニノムーティエ」の勝ちを確認し、ファンになりました。「タニノムーティ」はその後皐月賞・ダービーを勝った後、菊花賞も勝って「シンザン」以来戦後2頭目三冠馬になると思われましたがノド鳴り喘鳴症)という病気で菊花賞は敗退してしまいました。
こんな強い馬でも三冠は取れないのかと嘆きました。改めて三冠馬になるには強さだけではなく運も良くなければならないのだと実感しました。

翌1971年「ヒカルイマイ」が現れて皐月賞・ダービーを勝ち、「タニノムーティエ」ができなかった三冠達成が期待されましたが、屈腱炎のため菊花賞には出走できませんでした。やはり三冠馬になるためには運が必要なんだと再認識しました。
ただ、当時のスポーツ新聞には「ヒカルイマイ」は削蹄ミスという記事も出ていました。
ヒカルイマイは母親の血統がサラブレッド(純血種)かどうか不明ということでサラ系といわれていたのですが、サラ系に三冠を取らせたくないため、わざと削蹄ミスをしたという陰謀説まで出たものでした。当時、僕はこの説を信じていました。

ヒカルイマイ」のダービーは別の友達のところでNHKのテレビ放送を観たのですが、「タニノムーティエ」のスプリングステークス(といっても、観たのは砂嵐の映像でしたが)を凌ぐほどの最後方からの見事な追い込みで感動しました。

思えば、この頃の僕は追い込み馬が大好きでした。なんか追い込み馬が勝つとスカッとする気持ちになれたのです。

寺山修司によると競馬観はその人の人生を映し出しているとのことで、追い込み馬が好きな人は、今は不遇であるがいつか逆転を夢見ている人だそうです。僕は貧乏学生だったので、確かに当たっていると思います。

現在は、「好位差し」の勝ち方が好きになっています。

オリンピックのメダルがオークションに!

2020年の東京オリンピックまであと1年となりました。
オリンピックの話が出るときに、「友情のメダル」の話が取り上げられることが時々あります。

「友情のメダル」は、1936年のベルリンオリンピックの時の話です。
ベルリンオリンピック棒高跳びで西田選手と大江選手が同じ記録であったのですが、ルールに則りそれぞれ2位、3位に順位づけされました。しかし、記録としては同じ記録なので、帰国後に二人は相談し、銀メダルと銅メダルを半分に切って銀メダルと銅メダルのそれぞれの半分を接着剤でくっつけたという実話です。
もちろん団塊の世代の僕が生まれるずっと前のことです。

僕がこの話を知ったのは何かの雑誌に書いてあるのを読んだからだと記憶していますが、この話が一般に知られるようになったのは新聞記事が発端とのことです。

話しは変わりますが、僕が高校生から大学生(1964年~1972年)の頃のテレビ番組で「あなたの善意を」というものがありました。
この番組は有名人が自分の私物を提供して、それを欲しいと思う人が電話で購入金額を伝え、一番金額が高い人がその品物を落札するというオークション番組で、そのお金が慈善事業に寄付されるというものでした。

司会は小島正雄でした。小島正雄は当時音楽評論家(特にジャズ)として有名な人で、ラジオでディスクジョッキーもやっていました。
ディスクジョッキーといっても今のDJとは違い、自分でレコードを選んでラジオで曲を流すとともにその曲や歌い手のうんちく、あるいはそれに関連した社会事情などを喋るものでした。

小島正雄で特に印象に残っているのは、ラジオの番組でサイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス(The Sound of Silence)」を「沈黙の響き」と訳して、「なんと美しい曲名なんでしょうか!」と感嘆していたことです。
僕は当時「サウンド・オブ・サイレンス」を「無音の音」とか「静寂の音」と自分で勝手に訳していましたが、それがどういうことを意味するのかも分からなかったので、英語が堪能な小島正雄の訳を聞いて「あぁ、そういう風な訳をするのか!」と感心したものでした。でも、それでも意味は僕にはまったく分かりませんでした。
後年英語歌詞を見ても、歌詞の意味するところは分かりませんでしたし、今でも良く分かりません。

この「あなたの善意を」というテレビ番組に「オリンピックのメダル」が出てきました。
僕は、本当にこれをセリ(当時はオークションという言葉を知りませんでした)に出して良いの?と驚きました。
当時の僕の家のテレビはまだカラーテレビではなく白黒テレビだったので、「オリンピックのメダル」をテレビを通して見たとき正直言ってそれほどきれいなものには見えませんでした。

この「オリンピックのメダル」がなぜ出品されたかの説明もあったと思うのですが、僕の記憶にはそれが残っていません。

僕の記憶では、この「オリンピックのメダル」は当時のお金で10万円以上の金額で落札されましたが、落札者の方が電話口で「このメダルは他者が持つものではなく、ご本人(ご家族といったかもしれません)がお持ちになるべきなので、そのままお持ちください」と言って「オリンピックのメダル」を受け取りませんでした。落札者は、この「オリンピックのメダル」が他者に渡るのを防ぐために頑張って落札したというようなことも話されていた記憶があります。
僕は、10万円以上も出してこの「オリンピックのメダル」を所有者本人から他者に移るのを防いだ方に感動しました。こういうお金の使い方ができるのかと。


この「あなたの善意を」という番組でよく落札するのは芦屋在住の人でした。芦屋は関西人憧れの超高級住宅地です。
父と「やっぱり芦屋の人はお金持ちやなぁ」と話しながら見ていたものでした。
ただ、この「オリンピックのメダル」の落札者が芦屋の人であったかどうかは憶えていません。

僕の中では、この「オリンピックのメダル」が「友情のメダル」であったという記憶があるのですが、今考えると本当にあったことかなと首をかしげてしまう話ですし、インターネットを調べてもそういう記事は見つけられませんでした。
もし、僕の間違った記憶であるならご指摘いただければ有り難いです。

初めてのモーニングショーは1964年に始まった

日本で今のようなワイドショーが始まったのは僕が高校1年生の時(1964年)の「木島則夫モーニングショー」が先駆けだと言われています。
この番組ではNHK出身アナウンサーの木島則夫が司会進行を担っていました。僕はこのようなワイドショー形式の番組を見たのは初めてだったのですごく新鮮な印象を持ちました。木島則夫はCMを一切担当せず、CMはすべてアシスタント(といってもサブ司会者の立場)の男性と女性が担当していました。CMに移行するときは木島が「それではお知らせです」と言うのです。最初「お知らせ」って何だと思いました。CMのことを「お知らせ」と言うのはここから始まったのではないかと思っています。

ティッシュ」というものもこの番組のCMで初めて知りました。
この番組では「クリネックスティッシュ」がCM対象商品でしたが、当時の日本では僕を含めて「ティッシュ」って何?と言う人が多かったようで、CMでは水に濡れたリンゴをティッシュの上に乗せて持ち上げ、「このように濡れたリンゴを持ち上げても破れません」という説明を毎回繰り返していました。生(なま)CMでした。
また、CMで箱からティッシュを取り出すのですが、1枚を取り出すと次の1枚がすぐ取れるように箱の上に飛び出す仕組みを見て感動しました。アメリカ人はすごいなぁと感心しました(ティッシュを発明したのがアメリカ人かどうか知りませんでしたが)。

ちなみにティッシュがない時代は、「ちり紙」を使っていました。
ちり紙を数100枚平面的に重ねたものが売られており、家庭ではそれを上から数枚ずつ取って使用していました。
携帯用のティッシュもなかった頃は、このちり紙を10~30枚ぐらい折りたたんでズボンや上着のポケットに入れるのですが、歩いているうちにこすれて毛羽立ち、見た目も悪く、使いにくいという欠点がありました。

当時のティッシュはちり紙に比べてまだ割高で、僕の家でティッシュを使い始めたのは、このCMで知ってから3、4年後ぐらいのことだと記憶しています。
携帯用のティッシュが出てきたのは箱型ティッシュの出現からかなり後のことになります。これは便利だと感心しました。

また、当時は野菜につく残留農薬が問題になっていた時代でもあったので、このモーニングショーの中では食器を洗う台所用中性洗剤で野菜も洗うことを推奨するCMもよくやっていました。これも生CMでした。
今の日本で野菜を洗剤で洗っている人はごく少数であると思いますが、当時はこれが野菜の残留農薬問題解決の一方法だったのです。
時代を象徴するCMの一つだと思います。

先に掲載した「町内一斉に大掃除」で、父が大掃除の時シャツとステテコで畳を運び出していたと書きましたが、当時(1960年前半)の夏場の一般的な父親の家の中でのスタイルはステテコとシャツでした。
「木島則夫モーニングショー」では、夏場の男性(成人)が家の中で着るものについて、木島が「ステテコ派」、サブ司会者の栗原玲児が「シュートパンツ派」の立場で論争をしていました。このように割とくだらない内容を討論形式で放送するというのも当時としては珍しかったと思います。
当時の僕はショートパンツ(半ズボン)は子供が穿くものだという観念が強く、家にエアコンがない当時はステテコの方が汗も吸収してくれるので、やっぱり夏に穿くのはステテコになるのではないかと思っていました。
しかし、僕はその後成人してからも、夏場に家の中でずっと穿いていたのはショートパンツでした。エアコンが家にないときでもそうしていました。
それはステテコは急に来客があったときに応対するのが恥ずかしいスタイルであるという風潮になってきたからです。それまでは、家の近所ぐらいはステテコで歩いていた年寄りは多くいました。クレージーキャッツ植木等のコントにあるスタイルです。

ショートパンツはこの頃はバーミューダパンツと言っていましたが、今どきバーミューダパンツという言葉はほとんど聞かれなくなってしまいました。

今は、夏場は家、外を問わずTシャツに短パンというスタイルが普通になりましたね。