takegrigriの今昔物語

団塊世代のじじぃが昭和時代から見てきたことを書いています

花粉症の話~続き~

前に書いたように僕は45年前から花粉症です。
僕の花粉症は毎年3月の終わりごろから梅雨の初めぐらいまで続きます。病院でアレルギー検査をしてもらったところスギ、ヒノキに反応しているとのことでした。そのため人より期間が長いのではないかと思っています。
現在もまだ鼻がむずむずして鼻水も少し出ている状態です。ただ、ここ4、5年ぐらいは症状が軽くなってきているように思います。歳をとってアレルギー反応に鈍感になってきているのかもしれません。ティッシュの消費量が断然減ってきています。

前の「45年前から花粉症」に書きましたが、1970年代前半では僕は「花粉症」と言う言葉は知りませんでしたが、「アレルギー」でくしゃみや鼻水が出ることを知っていたのは中学生(1961年~1963年)の時か、高校生(1964年~1966年)の時に観たテレビ番組が理由です。

「レッド・スケルトン劇場」か「奥様は魔女」のどちらのテレビ番組だったかはっきりしないのですが、いつも鼻にハンカチをあてていて、くしゃみをするたびに「私、アレルギーなの」と言うおばあさんがときどき登場していました。当時の僕は、アレルギーというのはくしゃみがでる病気なのか、風邪でもないのにくしゃみが出るなんて変な病気だな、アメリカには変わった病気があるんだなぁなどと思っていました。
その後自分がそうなるなんて当時は夢にも思いませんでした。
1964年に日本ではスギ花粉症の論文が書かれたということでしたが、アメリカでは1960年代前半で、アレルギー症状の人がテレビに出ても一般に理解される状況になっていたのですね。アレルギーは文明病なのでしょうか。

このおばあさんが登場したのは「レッド・スケルトン劇場」の方だったと思っていますが、ひょっとすると「奥様は魔女」だったかもしれません。
「レッド・スケルトン劇場」の主役レッド・スケルトンはアメリカの有名な喜劇役者(男性)です。大きなえくぼがあり愛嬌のある顔をしていました。この「レッド・スケルトン劇場」はアメリカンジョークがいっぱい出てくるのですが、僕が日本人であるためか、それともまだ幼かったためか分かりませんが、理解できない笑いが結構ありました。
たとえば、レッドスケルトンが「伏せろ! 鷲の大群だ!」と突然叫ぶのですが、僕はどこが可笑しいのか分からず、ただ、レッド・スケルトンが他の出演者に伏せるようにさせる姿が少し笑える程度でした。しかし、番組の中では観客の大きな笑い声が入っていました。
アメリカンジョークを翻訳される翻訳者は苦労されているんだろうなと、今でも思っています。

このアレルギーのおばあさんが何のアレルギーの設定だったのか気になるところです。スギ花粉症とは考えにくいですね。
この当時のアメリカは製造業の活況がピークに達していた時代だったので、大気汚染などの公害に関連したものであったかもしれないと思っています。

町内一斉に大掃除

関東地方も梅雨入りしたとちょっと前にニュースで伝えていました。
しばらくはじめじめした天気が続き、梅雨明けが待ち遠しい日々になります。

僕が小学生の頃(1955年~1960年)、梅雨明け後の晴天が続く時期に町内一斉の大掃除が毎年ありました。
市内をいくつかの地域に分けて、各地域ごとにまとまって同じ日に大掃除をするのです。
主な作業は、畳の天日干しです。午前9時~10時ごろに畳を外に出して畳の裏側を天日干しにします。これにより畳の湿気を取り除くとともに、畳が置かれていた床に風を当て、床も乾燥させるのです。もちろん、箪笥が置かれていた畳も外に出しますので、箪笥を移動することになり箪笥の裏の埃も掃除できます。箪笥はその間、床にじか置きされることになります。

日頃家事は一切やらない父親が、この日だけは頭に埃よけのタオルをかぶり、シャツとステテコ姿で畳を手際よく外に出していく姿は何か頼もしく思えました。この大掃除の日はどこの家庭でも大人の男の人が忙しそうに畳を外に出していて、町内に活気があふれていました。
僕の家は安普請の借家だったためか、床下からの湿気が畳に伝わりにくいように畳と床の間に新聞紙を敷いていました。しかし大掃除の時のゴミ集積所に畳の下に敷いたと思われる新聞紙が大量に置かれていたので、多分他の家でも同じように新聞紙を畳の下に敷いているところが多かったと思います。

大掃除で畳を上げると敷いていた1年前の新聞紙が出てきてちょっと懐かしい記事が有ったりするので、僕がその新聞をずっと読んでいると、父親から早く新聞紙をゴミ集積所に持っていくように注意されました。これは毎年のことでした。

畳も床も乾燥した午後3時ごろ、畳の両面を今の布団たたきのようなものでバンバンと叩いて埃を出します。畳の表面を力まかせにバンバン叩くと父からそんなにきつく叩くと畳が傷むと注意されるのも毎年のことでした。

床には新しい新聞紙を敷いて、その上に白い粉の薬剤を振りかけました。乾燥のための薬剤か殺虫・防虫のための薬剤かは分かりません。
しかし、僕の家ではその後なぜか薬剤をまくのを止め新聞紙を敷くだけにしていました。理由は不明です。

そして、その新しい新聞紙の上に天日干しした畳を置いて、母や僕も父に協力して箪笥を元の位置に配置します。
そのあと、母と僕ら子供たちで畳を雑巾で拭き、大掃除は終わりです。
母は掃きそうじ、拭きそうじ、箪笥の異動などをやりつつ、大掃除前の朝食、大掃除中の昼食、大掃除後の夕食も作るので父親以上に大変だったと思います。

このような大掃除は僕が小学生の時は毎年行われましたが、僕が中学生になった頃には行われなくなりました。
この頃に電気掃除機(わざと「電気」をつけました)が一般家庭に普及し始めた時期ですので、それと関係があるのかもしれません。

遠足はほとんど京都・奈良だった

僕は大阪で生まれ育ったので、小学校、中学校、高校の時の遠足は、ほぼ京都、奈良でした。
したがって、京都、奈良の定番の史跡、神社・仏閣はほとんど行っていると思います。

最近、ユネスコ世界文化遺産に、大阪府仁徳天皇陵などを含む「百舌鳥・古市古墳群」が登録される見通しとなったとニュースで報じられましたが、なぜか遠足でこの仁徳天皇陵に行った記憶がありません。
僕の高校生時代は1964年~1967年ですので50年以上前であり、ましてやそれより古い中学校・小学校の時の状況は良くは憶えていないのですが、仁徳天皇陵の周辺にはそれ以外に見るべきものがなく遠足の目的地にならなかったのかもしれません。また、仁徳天皇陵の中には今でも入ることはできないので、上空から見るのなら別ですが、周辺から眺めるだけだと木々が生い茂った小山としか見えないから遠足の目的地にならなかったのかもしれません。生きているうちに一度は行っておきたい場所の一つです。

高校1年生の時(1964年)、遠足で奈良に行き、石舞台や薬師寺などを見学しました。午前中に石舞台がある明日香地域に着いたのでそこで昼食となりました。当時は石舞台の周りも整備されておらず、ポツンと石舞台があるだけだったので石舞台の上で弁当を食べている人もいました。石舞台が蘇我馬子の墓だと言われていたので、僕は畏れ多くて大分離れたところで友達と弁当を食べました。

ちなみに僕たちが小学・中学・高校生の頃は、遠足や運動会などのイベントがあるときの弁当は必ず「海苔巻(寿司)」(関東では「太巻き」と言うそうです)でした。現在ではイベント時の弁当といえばほぼ「おにぎり」と「から揚げ」になるのでしょうが、僕たちの時は巻き寿司でした。前の晩に母親が十数本(多いときは20本ぐらい)の海苔巻を作り夕食にするとともに、翌日の弁当にも入れたものでした。僕の家だけではなく友達のところも同じように遠足や運動会での弁当は海苔巻だったのでそれが普通だと思っていました。小学校の時、父子家庭だった友達はイベントの時の弁当がおにぎりだったので、働きながら子供の世話をするお父さんは巻き寿司を作るのが大変なんだろうなぁと子供心に思っていました。
僕が住んでいた大阪ではイベント時の弁当は巻き寿司が定番でしたが、ひょっとしてほかの地域では違ったのかもしれません。

石舞台などがある明日香地域を離れ、午後に薬師寺に着くと僕の高校の他に別の高校の生徒たちも来ていました。薬師寺では生徒たちに仏像や寺のことを説明をするお坊さんがあまりにも上手に話をするので感心して聞いていたら、そのお坊さんが突然「誰や、そこでガムを噛みながら話を聞いている奴は! 話を聞くときはガムなんか噛むな!」と他の高校の集団に向かって指をさし大声で一喝しました。

後々のこと、テレビを見ていたら薬師寺で大声で叱ったお坊さんが出ていて「高田好胤」だと分かりました。テレビでも話が上手く説得力があったので人気がありました。高田好胤がテレビに出る以前は、薬師寺管主高田好胤の師である「橋本凝胤」がテレビに出ていて人気がありましたが、二人の話し方はまったくの正反対で、高田好胤が軽くて分かり易く話すのに対し、橋本凝胤は重厚で深みのある話し方をする人でした。

ウィキペディアWikipedia)によると、高田好胤は18年間もこのように薬師寺を訪れる生徒たちに薬師寺の説明や法話を行い、それを聞いた生徒の数は600万人を超えるということです。僕もその一人に入っています。

中学校の修学旅行は行けなかった

中学の修学旅行は3年生(1963年)の10月でした。
毎年修学旅行は東京へ行くのですが、この年は東京が水不足であるということで行き先が四国に変更されました。
中学の修学旅行は3泊4日です。
ちなみに学校から行く初めての宿泊旅行は小学5年生の時の林間学校で、1泊2日で奈良の吉野に行きました。小学6年の時の修学旅行は2泊3日で伊勢志摩に行きました。
中学の修学旅行が東京だと聞いていたので楽しみにしていたのですが、急遽四国に変更になってちょっとがっかりしました。しかし、四国へは大阪港から船で行くと聞き、それも楽しみになりました。

ところが修学旅行の1ヵ月前に虫垂炎になり入院することになりました。普通は1週間で退院できるのですが、微熱が取れなくて10日間入院していました。退院後は順調で体育は1週間休んだだけで翌週の体育の授業では軽い運動は問題ありませんでしたし、修学旅行1週間前では普通に体育の授業も参加できました。
当然修学旅行は問題なく行けると思っていました。

しかし、修学旅行1週間ぐらい前に先生に呼ばれ、「虫垂炎の手術をした直後の君に旅行中何かあったら、学校として君に十分な対応ができない可能性がある。だから修学旅行へ行くのを止めてほしい」と言われて驚きました。修学旅行に行けないと後々みんなと同じ話題を共有できないし、卒業アルバムの修学旅行編にも写真が載らない、何より修学旅行を友達と一緒に楽しめない。「いやです、修学旅行には行きたいです」と言いました。しかし、先生は、僕の両親も説得しており、両親からも「修学旅行に行って、もし体調が悪くなると先生にも友達にも迷惑がかかるから諦めなさい」と言われ、文字通り泣く泣く修学旅行に行くのを諦めました。
しかたがないので修学旅行の期間は一日中家でテレビでも見ていようと思っていたら、先生から毎日出席を取るから学校に来るようにと言われました。
3年生で一人だけ学校に居るなんて寂しくて嫌だなぁ、授業もないから何をすればいいんだろうと思いながら、とりあえず数冊の教科書を持って登校しました。

教室につくと同じクラスの友達が2人いました。普段はそれほどよく話をする友達ではないですが、嫌いな友達ではありません。もともとこのクラスはみんな仲が良く仲間外れにされる人はいませんでした。僕が修学旅行に行かないことは先生がクラスのみんなに言っていたので、その2人は僕が修学旅行に行けないことを知っていましたが、僕は、僕以外に修学旅行に行かない人がいることは知りませんでした。
「なんで修学旅行に行かへんかったん?」と世間知らずで余計なことを聞いてしまいました。2人は一瞬戸惑った顔をしましたが、一人が「俺のとこお金がないから」と言うと、もう一人が「俺のとこも」と答えました。
この時初めて経済的な理由で修学旅行に行けない人がいることを知りました。中学3年生にもなって世間知らずも甚だしいことでした。
僕の家も裕福ではありませんでしたが修学旅行には行けたので、それが普通のことだと思っていました。

修学旅行に行けなくて学校に登校した生徒は僕たち3人だけでした。3年生全体で680人いるうちの3人だけです。
後で聞いたところによると、他のクラスに2人ほど経済的な理由で修学旅行に行けない生徒がいたが、学校には来なかったということでした。

いつもの授業開始時刻になると先生が出席を取りに来ました。先生に僕たちは何をすればいいのかと聞くと、「教室にずっといれば何をしてても良い」「昼飯の時間になったら家に帰っていいから」と言って職員室に戻っていきました。その後先生は来ませんでした。
3年生の建物は3階建てで1年生、2年生とは別棟になっていたので、この建物全体で3人だけです。結構騒いでも外に聞こえる心配がありませんでした。
教室にピンポン球があったので、廊下に出て、箒の柄をバットにして、一人がピッチャー、一人がバッター、もう一人が野手になり交替しながら野球をしました。
ピンポン球はちょっと回転を掛けると大きく変化するので面白くて2時間以上熱中しました。ピンポン球をまともに打つと割れてしまうのですが、それでもまだ投げられるうちはそのまま使い完全に二つに割れてしまうまで使い続けました。
その頃に昼休みのチャイムが鳴ったので3人とも家に帰りました。
初日で、2つあったピンポン球が割れて使えなくなったので、家に帰ってからピンポン球を2つ買いました。

翌日は教科書は持っていかず、買ったピンポン球だけを持って登校しました。また前日と同じように3人で野球をしました。楽しくて昨日と同様に時間はあっという間に過ぎていきました。昼休みまで遊んで家に帰りました。
学校に遊ぶためだけに行ったのは、後にも先にもこの時だけです。

登校したのは2日間だけでした。修学旅行は3泊4日でしたが、初日は夕方に大阪港出発で船中泊だったので旅行に行かない生徒は登校しなくてよかったのです。また帰ってくる日は日曜日だったため登校しなくて良かったのです。翌月曜日は修学旅行のお疲れ休みでした。

火曜日は修学旅行から帰ってきた友達がいろいろ話を聞かせてくれましたが、修学旅行に行った友達同士で話が盛り上がってしまい、仲間から外れた気持ちでちょっと寂しい思いをしました。

何日か経って職員室に呼ばれ先生から封筒を渡されました。修学旅行用に積み立てていたお金が返却されたのです。封筒には9千円ほど入っていました。学卒の初任給が2万円前後の頃ですから大金です。1年生から毎月積み立てていたので気が付きませんでしたが結構な金額になっていました。この金額の大きさから経済的なことで修学旅行に行けない家庭があることを再認識しました。

修学旅行後しばらくして進路調査があり、高校に進学する人、就職する人がそれぞれ希望を出します。クラス52人中7、8名が就職希望です。
彼ら2人も就職希望でした。

初めての給料、僕の給料はどこ...?

今日は4月25日。多くの企業では給料日でしょうか?
特に新入社員の人には楽しみな日だと思います。

僕は1972年4月に入社して2ヵ月間は研修でした。「僕が入社した会社」(面倒なので、以下、会社と書きます)は製造会社でしたので2ヵ月の間に自社製品の仕様、構造、機能、動作などを教え込まれました。研修を受けるのは高専卒、大学卒、大学院卒の技術職50名ほどで、研修所に集められ集中教育を受けました。工業高校卒の人や事務系の新入社員は職場で仕事をしながらの教育、いわゆるOJT(On the Job Training)でした。
今から考えると50名に2ヶ月も研修させてくれるなんて、会社によほどの余裕がないとできないことです。高度経済成長期の賜物でした。

僕が入社した当時は中学卒の人が製造ラインの担い手として多く採用されていました。会社は中学卒の人たちが定時制高校に通えるように、終業時間を配慮したり、給与面でも大きな不利にならないようにしていました。そのため会社の人気が高く、優秀で向学心のある中学卒の人たちが集まっており、実際に一緒に仕事をすると優秀な人たちだとすぐに実感しました。
工業高校の人たちに対してもこの会社の評価は高かったので、優秀な人材が多く集まっていました。
高校卒で夜間大学に通う人もおり、後年僕の上司になった方も夜間大学を卒業しておられ、技術者としても管理職としても人間としても優れており尊敬できる方でした。

入社して初めての給料は研修所で事務の女性から手渡されました。今と違って現金です。
給料から税金、社会保険料、独身寮の寮費・食費などを差し引かれると、手取りは3万5千円ほどになりました。それから家に仕送りし、貯金をすると残りは1万5千円ぐらいです。
この頃は土曜日は半ドン(懐かしい言葉です。今でも通用するのかな?)で午後が休み、日曜日のみ全休日という状態でした。
休みの時は独身寮での食事がなく、会社の食堂も閉まりますのでどこかで食事をしなければなりません。食事代だけで給料の残りが消えるような生活でした。

2ヶ月の研修が終わって6月に配属が決まりました。学生時代の成績が悪かったためか、あるいは出身大学の学校格差のためか、僕の配属先は技術者の花形である開発設計部門ではありませんでした。配属されたのは30数人が在籍する製造現場に近い職場で、僕と高専卒3人の計4名が配属されました。
大学卒は僕の直属の上司である係長と他に1人いるだけでした。課長は50名以上いる大所帯の課の課長と僕がいる課の課長を兼務しており、いつも大所帯の課の部屋にいました。大所帯の課には大学卒の人はいませんでした。

職場に配属されて初めての給料の時、職場の事務の女性が給料袋をみんなに渡していきます。
同期で配属された高専卒の3人も給料袋を渡されました。しかし、僕には給料袋は渡されませんでした。
何か手違いがあって給料袋を渡すのが遅れているのかなと少し不安に思っていた時、事務の女性が「課長が呼んでいます」と言ってきました。

課長は常時隣の部屋に居るので日常ほとんど顔を合わせることもなく過ごしており、配属の挨拶に行った時以来です。
課長は声が大きく親分肌で、仕事では喧嘩も辞さずのタイプの人でした。

隣の部屋にいる課長のところに行くと、僕の給料袋を見せながら「君はうちの職場に来てまだ1ヵ月足らずだ。なのに君の給料は、君と同じ歳でもう何年も会社に貢献しているほかの人たちよりも多い。なぜだかわかるか。」と言うのです。僕と同じ歳の人は全員中学卒、高校卒なので何年も会社に貢献してきていることは良く分かりました。会社では高校卒の人が4年経っても大学卒の人の初任給に及ばないような給与制度になっていました。この課長も工業高校卒でした。

僕が答えられないでいると、課長は「この給料は君の期待値の金額なんだ。早くこの期待値に見合うような成長を見せてくれ」と言って給料袋を渡してくれました。
この言葉は今でもずっと憶えています。これ以降は自分の仕事の成果が給料に見合っているかを意識するようになりました。
時には、給料が安いのではと思うこともありましたが・・・。

この課長には、そのあとにも時々呼び出され、僕が失敗した時などは大きな声で叱られたりしてどうにも苦手な方でした。
ただ、別の課との総合会議でこちらの正論を言ったとき、相手の課のかなり年長の人から理不尽と思える反論にあい、どうしてもその反論に言い返せず情けない思いをして職場に帰った時に、その話を聞いた課長が「若い者が正論を言っているのに屁理屈で言い返すな」と相手の課に正論を通してくれました。課長が正論を通してくれたことは、あとになって他の同僚から聞かされました。
この時は逆に自分がきちんと言い返せなかったことを思い返し、より情けなくなりました。

約3年この職場にいましたが、3月に課長に呼ばれて行くと「君は約3年間この職場で製造現場の状況を把握しただろう。今度はその経験知識を持って開発設計に活かしてくれ。最初から開発設計に行った連中は現場を知らないから、君には期待している」と言われ、開発設計部門への異動内示を受けました。

それから10数年経って、僕が幼い我が子とちょっと長い散歩をしていたとき、その課長とばったり出会いました。その時はもう定年退職されていました(この頃は定年が55歳というのが一般的でした)。聞けばその近くに住んでいらっしゃるとのことでした。歳はとっても親分肌の感じは変わりませんでしたし、僕にとって近寄りがたい雰囲気も変わりませんでした。

45年前から花粉症

今年も花粉症が発症し、毎年春はいやなシーズンとなっています。
僕が花粉症を発症したのは1973年か74年頃でした。
就職で上京して(1972年)1、2年ぐらいの時の4月に何か眼が痒くなり、眼をこすっていたら赤くなってしまったので眼科に行くと結膜炎ですと言われ目薬をもらいました。
しかし目薬の効果はなく眼はずっと痒いままでした。ところが初夏になる頃には自然に眼の痒みがなくなりました。
おかしいなと思っていたら、翌年の3月~4月にまた眼が痒くなりました。また眼科に行って目薬をもらいましたが効果がありません。
そのうち鼻水も出るようになり風邪かなと思って会社の診療所に行きました。
僕が勤めていた会社は中堅の製造会社でしたが、工員さんが多くいるということからか診療所を備えていました。
医師一人と看護婦二人が常勤していました。

ウィキペディアWikipedia)によると1964年に「スギ花粉症」の論文が出ているとのことですが、1973、74年頃の僕は「花粉症」という言葉を知りませんでした。

会社の診療所の医者は僕を診て、これは風邪ではなく「アレルギー」だなと指摘しました。当時アレルギーという言葉は知っていましたが、自分がアレルギーになっているなんて信じられませんでした。
医者が「花粉症」といったかどうか記憶はないのですが「アレルギー」といったのはよく憶えています。
「治りますか」と聞いたら、「毎日注射するから来い」と医者に言われました。
毎日注射しないといけないのですかと聞くと、アレルギーに身体が慣れるように少しずつアレルギーの原因となるものを注射で身体に入れて慣れるようにすると説明されました。
2ヶ月ぐらい注射を続けると言われ、以降毎日注射をするために仕事の合間を縫って診療所に通うことになりました。
左右の腕に交互に注射を打つのですが、2週間ほど注射を打ち続けると新しく注射をする箇所がなくなり、前に注射した付近に注射をしなくてはならないようになりました。注射を打った箇所が少し硬くなってきており、その上に注射をすると痛いのです。
痛みに弱い僕は3週間目の途中で注射を打つのを医者に無断でやめました。診療所からは注射に来るように電話がありましたが、仕事が忙しいという理由を付けて行きませんでした。そのうち診療所からの連絡も来なくなりました。

最近、人工透析を受けていた人があまりにも苦しいので人工透析をやめて亡くなられたことが報じられましたが、人工透析を受けている人は何年、何十年も身体に針を刺しているのですね。僕なんかの比じゃない大変さなのに続けておられる。それに比べて僕は3週間足らずで止めてしまって情けない限りです。

花粉症が発症するたびに、あのまま注射を続けていたら「花粉症」が治っていたのだろうか、それとも注射が痛かっただけで「花粉症」は治らないままだっただろうかと考えることがあります。

女性専用電車が来た!!~女性専用車両ではなくて~

4月から首都圏、近畿圏で通勤、通学で電車を利用することになる人も多いかと思います。
特に首都圏、近畿圏以外から来て、通勤・通学で電車を利用する人は満員ラッシュに戸惑う人も多いのではないでしょうか。
僕も近畿圏で高校の通学に電車を利用していてある程度の満員電車に慣れてはいましたが、首都圏に来てその満員電車の混み具合には驚きました。
また平成になってからは、満員電車での痴漢被害の問題などもあることからか、今ではほとんどの鉄道で女性専用車両を設けています。
しかし女性専用車両は車両数も限定されているので、ラッシュ時は普通車両と変わらず満員のようで女性専用車両だからと言って楽な通勤ではなさそうです。

僕は高校通学に京阪電車を利用していました。首都圏ほどではありませんが、いつもある程度は混む電車です。
高校2年(1965年)だったと思いますが、あるときホームに入ってきた電車がガラガラにすいていました。
「うわー!こんな電車があるんや、ラッキー!」と思って乗ると、何か雰囲気が違うのです。乗っている人は全部女性です。しかもほとんどが小学生、中学生、高校生の女の子です。何か間違ったことをした感がひしひしと伝わってきました。
その時、「この電車は女性専用電車です。男性は乗れませんのでご注意ください」と駅と車両内の両方のアナウンスがありました。
僕はきまり悪くなり、あわてて下車しましたが、こんな電車があるなんて初めて知り驚きました。

この電車は、今普通にある女性専用車両付の電車ではなく、全車両が女性専用の電車なのです。最初の頃は4両編成でしたが、後の頃になると6両編成になったと記憶しています。
この女性専用電車は翌日以降も定時に来ました。噂では、沿線にある小・中・高・短大を併設する女子学園が生徒のために特別に仕立てた電車だということでしたが、真偽は分かりません。学園の生徒だけではなく、他校の女子生徒や一般の女性も乗車することができたようです。

状況を知らないおじさんがこの電車に間違えて乗ってしまい、駅員に注意されて降りるという光景を何度か目撃しました。僕と同じように決まり悪そうに降りていく人もいましたし、状況を把握できないまま降ろされる人もいました。

この女性専用電車は僕が高校を卒業するまで続かなかった記憶があるのですが、それも確かではありません。
上京してだいぶ経った頃に、女性専用車両を設けた電車のことがテレビで紹介されましたが、その時にこの女性専用電車のことを思い出しました。