takegrigriの今昔物語

団塊世代のじじぃが昭和時代から見てきたことを書いています

初めての給料、僕の給料はどこ...?

今日は4月25日。多くの企業では給料日でしょうか?
特に新入社員の人には楽しみな日だと思います。

僕は1972年4月に入社して2ヵ月間は研修でした。「僕が入社した会社」(面倒なので、以下、会社と書きます)は製造会社でしたので2ヵ月の間に自社製品の仕様、構造、機能、動作などを教え込まれました。研修を受けるのは高専卒、大学卒、大学院卒の技術職50名ほどで、研修所に集められ集中教育を受けました。工業高校卒の人や事務系の新入社員は職場で仕事をしながらの教育、いわゆるOJT(On the Job Training)でした。
今から考えると50名に2ヶ月も研修させてくれるなんて、会社によほどの余裕がないとできないことです。高度経済成長期の賜物でした。

僕が入社した当時は中学卒の人が製造ラインの担い手として多く採用されていました。会社は中学卒の人たちが定時制高校に通えるように、終業時間を配慮したり、給与面でも大きな不利にならないようにしていました。そのため会社の人気が高く、優秀で向学心のある中学卒の人たちが集まっており、実際に一緒に仕事をすると優秀な人たちだとすぐに実感しました。
工業高校の人たちに対してもこの会社の評価は高かったので、優秀な人材が多く集まっていました。
高校卒で夜間大学に通う人もおり、後年僕の上司になった方も夜間大学を卒業しておられ、技術者としても管理職としても人間としても優れており尊敬できる方でした。

入社して初めての給料は研修所で事務の女性から手渡されました。今と違って現金です。
給料から税金、社会保険料、独身寮の寮費・食費などを差し引かれると、手取りは3万5千円ほどになりました。それから家に仕送りし、貯金をすると残りは1万5千円ぐらいです。
この頃は土曜日は半ドン(懐かしい言葉です。今でも通用するのかな?)で午後が休み、日曜日のみ全休日という状態でした。
休みの時は独身寮での食事がなく、会社の食堂も閉まりますのでどこかで食事をしなければなりません。食事代だけで給料の残りが消えるような生活でした。

2ヶ月の研修が終わって6月に配属が決まりました。学生時代の成績が悪かったためか、あるいは出身大学の学校格差のためか、僕の配属先は技術者の花形である開発設計部門ではありませんでした。配属されたのは30数人が在籍する製造現場に近い職場で、僕と高専卒3人の計4名が配属されました。
大学卒は僕の直属の上司である係長と他に1人いるだけでした。課長は50名以上いる大所帯の課の課長と僕がいる課の課長を兼務しており、いつも大所帯の課の部屋にいました。大所帯の課には大学卒の人はいませんでした。

職場に配属されて初めての給料の時、職場の事務の女性が給料袋をみんなに渡していきます。
同期で配属された高専卒の3人も給料袋を渡されました。しかし、僕には給料袋は渡されませんでした。
何か手違いがあって給料袋を渡すのが遅れているのかなと少し不安に思っていた時、事務の女性が「課長が呼んでいます」と言ってきました。

課長は常時隣の部屋に居るので日常ほとんど顔を合わせることもなく過ごしており、配属の挨拶に行った時以来です。
課長は声が大きく親分肌で、仕事では喧嘩も辞さずのタイプの人でした。

隣の部屋にいる課長のところに行くと、僕の給料袋を見せながら「君はうちの職場に来てまだ1ヵ月足らずだ。なのに君の給料は、君と同じ歳でもう何年も会社に貢献しているほかの人たちよりも多い。なぜだかわかるか。」と言うのです。僕と同じ歳の人は全員中学卒、高校卒なので何年も会社に貢献してきていることは良く分かりました。会社では高校卒の人が4年経っても大学卒の人の初任給に及ばないような給与制度になっていました。この課長も工業高校卒でした。

僕が答えられないでいると、課長は「この給料は君の期待値の金額なんだ。早くこの期待値に見合うような成長を見せてくれ」と言って給料袋を渡してくれました。
この言葉は今でもずっと憶えています。これ以降は自分の仕事の成果が給料に見合っているかを意識するようになりました。
時には、給料が安いのではと思うこともありましたが・・・。

この課長には、そのあとにも時々呼び出され、僕が失敗した時などは大きな声で叱られたりしてどうにも苦手な方でした。
ただ、別の課との総合会議でこちらの正論を言ったとき、相手の課のかなり年長の人から理不尽と思える反論にあい、どうしてもその反論に言い返せず情けない思いをして職場に帰った時に、その話を聞いた課長が「若い者が正論を言っているのに屁理屈で言い返すな」と相手の課に正論を通してくれました。課長が正論を通してくれたことは、あとになって他の同僚から聞かされました。
この時は逆に自分がきちんと言い返せなかったことを思い返し、より情けなくなりました。

約3年この職場にいましたが、3月に課長に呼ばれて行くと「君は約3年間この職場で製造現場の状況を把握しただろう。今度はその経験知識を持って開発設計に活かしてくれ。最初から開発設計に行った連中は現場を知らないから、君には期待している」と言われ、開発設計部門への異動内示を受けました。

それから10数年経って、僕が幼い我が子とちょっと長い散歩をしていたとき、その課長とばったり出会いました。その時はもう定年退職されていました(この頃は定年が55歳というのが一般的でした)。聞けばその近くに住んでいらっしゃるとのことでした。歳はとっても親分肌の感じは変わりませんでしたし、僕にとって近寄りがたい雰囲気も変わりませんでした。