takegrigriの今昔物語

団塊世代のじじぃが昭和時代から見てきたことを書いています

家に電話がなかったころ

今は個人個人がスマホや携帯電話を持っていますが、それ以前は各家庭に電話機が1台置かれていた時代でした。
僕の家に初めて電話機が備え付けられたのは僕が小学6年生(1960年)の時でした。

小学校の卒業アルバムの最後に各卒業生の住所・電話番号が記載されていました。(今では個人情報を守るという観点からありえませんが)
電話番号を記載してある卒業生は6割ぐらいで、その6割のうち電話番号が
「XX-XXXX(呼)」
と書いてある人も結構いました。
この頃は、市外局番もなく、2桁の局番と4桁の電話番号のみでした。
ということは電話機は全国で100万台未満しかなかったということになります。

ところでこの「(呼)」の意味ですが、
(呼)の前に書いてある電話番号は近所で電話を持っている人の番号で、その電話番号に電話を掛けるとその電話の持ち主から自分を呼び出してもらえるというものです。

今日のはなしは、その電話機がまだ家になかったころの話です。

急に雨が降った時、家に電話機があれば電話して「○○時に、△△駅に迎えに来て」と連絡できますが、家に電話機がないのでそうはいきません。
以前の「傘がない」の記事でも書きましたように、この頃は傘は一人一本しかもっていないのが普通で置き傘をしている人もほとんどおらず、折り畳み傘もまだない(少なくとも一般的に知られていない)時代です。
急に雨が降った場合は、帰る時間を家に居る人が予測して駅まで傘を持って迎えに行くのです。

僕の父は家から離れた場所で商売をしていましたので、帰宅する時間が決まっていませんでした。しかも、バスで帰ってくるときもあれば、電車で帰ってくるときもありました。

小学3年生のある日、急に雨が降ってきました。母親が僕に父を迎えに行って欲しいと頼んできました。
僕の下にはまだ幼い弟が2人いて、母親も迎えに行けない事情がありました。
「これを持ってお父ちゃんを迎えに行ってくれへん?待ってる時に食べてええから」とドーナツ生地をスプーンで掬って油で揚げたものを持たせてくれました。
「ごめんな。時間がなくてドーナツのかたちにできへんかった」と言いながら、2、3個づつ新聞紙にくるんで僕の両方のポケットに入れました。この頃は何でも新聞紙に包んだものでした。

「駅に行くの? バス停まで行くの?」
駅までは子供の足で歩いて5分、バス停までなら10分ぐらいでした。
「今日は多分バスで帰ってくると思うから、バス停で待ってて」
「お父ちゃんが帰ってくるまでずーっと待ってなあかんの?」
「6時半まで待ってて、それでも帰ってけえへんかったら家に帰ってきて」
「時計がないから時間がわからへん」
「おとなの人に、今何時ですかって聞いたらええねん」
「わかった」
といって、6時前に父の傘を持ち自分の傘をさして家を出ました。
夕食は食べ終わっていました。

知らないおとなの人に時間を聞くのはいやだなぁと思っていたのですが、バス停は始点・終点のバス停だったので乗車券発売所があって、その発売所にある掛け時計が外から見えていました。ホッとしたのを憶えています。
その時計をときどき見て、母が持たせてくれたドーナツもどきを少しずつ食べながら父を待っていました。
6時半になった時もう帰ろうかと思いましたが、僕が帰ったすぐ後に父が着いたら申し訳ないという気持ちがあって7時まで待ちました。
でも、父は帰ってきませんでした。
仕方がないので、父に会えないまま家に帰りました。
「おおきにありがとう」「今日はお父ちゃん遅いのかもしれへんなぁ」と母。

僕は8時半ごろに寝ました。テレビがない頃なのでいつも9時までには寝ていました。
結局、父は10時前に電車で帰ってきたということでした。

自宅に電話機がない頃は、このような「空振り」は多かったと思います。
でも、みんな辛抱強く待つのが普通の時代でした。