takegrigriの今昔物語

団塊世代のじじぃが昭和時代から見てきたことを書いています

時計(1)初めての腕時計

僕の父は腕時計が好きでした。その影響で僕も腕時計に興味を持つようになりました。

父は商売がまだうまくいっていなかった時から時計に凝っていました。父も金銭的な余裕がなかったので、時計のコレクションをすることはできず、古い時計を下取りに出して新しい時計を買うというスタイルでした。
父に「世界で一番ええ時計は何?」と僕が聞くと、父は「パティック(パティック・フィリップ)や」と即答しました。
その後僕もいろいろ見聞きしたところ、父の見解は間違っていなかったようです。
中学生の頃(1961年~1963年)テレビで「野球教室」を見ていたところ、巨人軍の左腕伊藤投手が出演していました。父は伊藤投手を見て「この人の時計がパティックや」と言いました。
「この時計なんぼするの?」「百万円!」
当時の学卒初任給が2万円前後だったと思いますので、大変な金額です。現在だと1000万円を超える価格に相当します。
普通の人が頑張っても買えるものではありません。外国製時計が好きな父でも到底買うことはできないと思いましたし、実際に生涯買うことはできませんでした。

外国製の時計は当時輸入関税が高かったので、このようにびっくりするほど高価なものになっていました。当時は国内産業を保護するために、自動車や腕時計などを輸入するときに高率の輸入関税をかけていました。
少し後になりますが、いつまでも高率の輸入関税をかけていることに対して外国から輸入関税引き下げ要求がありました。貿易自由化です。
貿易を自由化(輸入関税率の低減)する前、テレビで「国産品を愛用しましょう」というキャンペーン放送が何回かあり、三國一郎が司会をしていました。これが何年だったか思い出せないので、インターネットで調べましたが、まだ探し切れていません。僕が高校生の頃だった記憶があるのですが、正確かどうか分かりません。

僕が自分の時計を持ったのは高校に入学した時(1964年)です。父は、僕の希望を聞くことなく「セイコー」の普通の腕時計(名前は忘れた)とケースが分厚い「セイコー5」を見せて、どっちがいいか聞いてきました。父は時計屋から2個の時計を預かり持ってきたようでした。
僕はケースが分厚い腕時計が好みでした。
父は普通のセイコーを勧めてきましたが、僕はそれは好きじゃないと断りました。本当は「セイコー5」よりもさらにケースが分厚い「シチズン7」が欲しかったのでそう言うと、父は「シチズンよりもセイコーの方がええからこっちにしとき」と言って、結局「セイコー5」が自分の時計になりました。セイコーの普通の時計は返しました。

当時の国産の腕時計は、日付が変わるとき午前0時前後に数十分以上かけてずるずると日付の数字が切り替わりました。僕の「セイコー5」も同じでした。
一方、父の外国製時計は午前0時あたりで瞬時に日付が切り替わります。この点ではどうしても「セイコー5」に不満がありました。
そんな時、リコーから「リコーオートジャスト」が発売されました。日付と曜日が瞬時に切り替わるというのです。もうたまらなく欲しくなって、父に我が儘を言って買ってもらいました。確かに日付と曜日は瞬時に切り替わるのですが、よく止まるのです。時計としては致命的です。
高校生にとって試験中に時計が止まって時間が分からなければ大問題です。買って最初の1年以内に2回修理に出しましたが、修理してもまた止まりました。仕方がないので、セイコー5をまた使うことにしました。
当時、腕時計は高価なもので一生に1本持つのが普通でした。ですから高校生で腕時計を2本も持つなんてありえないことでした。
まったく僕のわがままで無駄なお金を使わせてしまって、父親には本当に申し訳ないことをしたと思いました。未だに後悔しています。

当時の腕時計は機械式機構のみで、今のようなクォーツ式機構の腕時計はありませんでしたので、いくら正確な時計でも1日に10秒は遅れ/進みします。
その頃は7時直前になると民放テレビ全局で一斉に「セイコー」のコマーシャルが始まり、午後7時の時報を時計の映像と「ピッ、ピッ、ピッ、ポーン」という音で教えてくれました。高校生になって初めて自分の腕時計を持ったとき、僕はその時報に合わせて自分の腕時計を合わせるのですが、翌日にはもう15秒以上遅れ/進みしています。
どうして時計は秒まで正確にならないのか不満でしたが、「時計とはそういうもんや」という父の言葉に無理やり自分を納得させました。

こんなとき、すごい時計を見つけました。
前にも書いた、「ダイエー」発祥の地千林商店街で!

(以下続きます)