takegrigriの今昔物語

団塊世代のじじぃが昭和時代から見てきたことを書いています

昔のテレビ番組

僕の家にテレビ(受像機)が設置されたころのテレビ番組は結構よく憶えています。
一番熱心に見ていたのは「月光仮面」でした。白いターバンのようなものを頭に巻いて、独特のサングラスに白いマスクで口元を覆い、白のタイツ姿でオートバイを乗り回すという、今までのヒーローからはかけ離れた格好で活躍するのが新鮮で毎週の放送日(記憶だと日曜日)が待ち遠しい気持ちでした。
それまでのヒーローで正体が明らかになっていない設定のものとしては、それ以前では「鞍馬天狗」でしたが、鞍馬天狗は着流しで覆面ということで特に奇異な恰好ではありませんでした。
月光仮面」以降のヒーローものは顔を隠したものが多くみられるようになってきました。今思い出せるものだけでも、
七色仮面」、「快傑ハリマオ」、「まぼろし探偵」、「ナショナルキッド」、「豹(ジャガー)の目」の「笹りんどう」などなど。
ナショナルキッド」は当時のナショナル(松下電器産業、現パナソニック)が提供していました。

ヒーローものだけではなくコメディ物も楽しみでした。
「やりくりアパート」も面白かったのですが、そこで一躍脚光を浴びた「大村崑」がその後出演した「番頭はんと丁稚どん」は僕が小学生から中学生の頃の番組で、いつも大笑いしていました。
「やりくりアパート」にはしゃべくり漫才の祖といわれた漫才コンビエンタツアチャコの「横山エンタツ」が出演していました。この頃はエンタツアチャコで漫才をしていなかったので、僕は彼らの漫才を見たことがありません。
一方、花菱アチャコはラジオドラマ「お父さんはお人よし」などで活躍しており、僕にとってはアチャコのほうがなじみがありました。
番組のタイトルは忘れましたが、アチャコが武士の役で出演するテレビ番組があり、その番組の最後に「寝るほど楽は無かりけり、浮世のばかは起きて働け」というナレーションが出てきて、この言葉はいまだによく憶えています。

大村崑」は「番頭はんと丁稚どん」でのアホな丁稚役で大人気となりましたが、同じころ「藤山寛美」も「親バカ子バカ」のアホな息子役で絶大な人気を得ました。
この二人のアホ役の役者を共演させるとどんな面白いものができるのだろうかと思っていたところ、二人が共演するドラマが作られました。確か藤山寛美が兄で、大村崑が弟という設定でした。
すごく期待したのですが、二人ともアホ役ではなく、普通のドラマで僕には全然面白くないものでした。あまりにも期待外れだったので2回目か3回目には見なくなりました。
これだけの役者を揃えても面白いものができるとは限らないということを学びました。

この頃のNHKは茶の間で家族全員が楽しめる番組を多く放送していました。
僕がよく見ていたのは「ジェスチャー」「私の秘密」、後年では「連想ゲーム」などです。
私の秘密」は一般の人で特技を持っている人が登場し、その人の特技を回答者が推理するというものです。
ここに登場した人で僕がいまだに覚えている人がいます。
この時の司会者は2代目の八木治郎アナウンサーでした。
登場した人は「合気遠当ての術」ができるというのです。
「合気遠当ての術」は気合だけで相手を倒すというもので、小説や映画などでは出てくるものの実際にあると思っていませんでした。
登場した人は高齢でいかにも長年修行をしてきたという雰囲気の人でした。
その人は鳥かごから小鳥を会場に放ち、「エーーイ!」と小鳥に向かって声を発しました。
そこはテレビに映ったのですが、肝心の小鳥が落ちる場面はカメラワークが悪く映りませんでした。
その時、司会の八木治郎が「あっ、今小鳥が落ちましたね」と言いましたが、カメラが会場を映したときには小鳥は会場を飛んでいました。
八木治郎が噓を言うことはないだろうと思いながら、どの程度小鳥が落ちたのかそれを見たかったなぁといまだに思っています。

それ以降テレビで「合気遠当ての術」を使う人を見たことをないので、今でもそういう特殊な技の使い手がいるのか、それとも技は継承されなかったのだろうかと考えることがあります。

初めてテレビを見たのは

前にも書いたように、僕の家にテレビが設置されたのは僕が小学4年生の時(1958年)でした。
テレビの本放送が始まったのが昭和28年(1953年)だそうなので、本放送から5年後でした。
父の商売が順調になったことに伴ってテレビを買うことができたようです。ただ、家は狭くて安普請の借家のままでした。

僕が初めてテレビを見たのは、僕が4,5歳の頃(1953年~1954年)でおそらくテレビの本放送が始まって間もないころだったと思います。
場所は、最初の借家の大家さんの家でした。大家さんには子供がなく、たまに借家の子供を自分の家に呼んでくれることがありました。
借家は大家さんの大きな敷地内にあり、8軒ほどの長屋構成でした。すべて2間づくりの家になっているようでした。
今考えると、長屋は戦前には小作人の人たちが住んでいたのではないかと思います。
長屋の子供たちのなかで僕が男の子では一番の年長だったのでテレビを見せてあげようと思ったのかもしれません。
テレビには勝新太郎主演の映画「マラソン侍」が映っていました。このことをよく覚えているのは、この「マラソン侍」という映画を以前父と映画館で観たことがあったからです。
テレビを見てすごいという感動はありませんでした。
初めて見たテレビなのにあまり感動しなかったのは、映画で見た「マラソン侍」と同じものをやっていたこと、さらに映画より画面が小さいことに気を取られテレビのすごさを理解できなかったためです。大家さんも僕の反応にガッカリしたかもしれません。

長屋には10人ほどの子供たちがおり、正月には大家さんが自宅(お屋敷)の縁側に子供たちを集め、お菓子やおもちゃをプレゼントしてくれました。
子供たちが笑顔で映っている写真が今でも僕の手元に残っています。父によると大家さんのカメラは「ライカ」で当時の高級カメラだそうです。

次にテレビを見たのは小学1年生の時(1955年)でした。
同級生のT君が相撲をテレビで見ないかと級友3人ほどを自宅に招いてくれました。
いつもラジオで聞いてその姿を想像するだけであったのが、実際に動いている力士の姿を見ることができるのにはすごく感激しました。
それから何回かT君の家で相撲観戦を楽しませていただきました。

テレビはその頃のサラリーマンの平均給料の半年分以上の価格だったので、T君の家はお金持ちだったのでしょう。
その後、サラリーマンの平均給料は上昇し、テレビの価格も徐々に下がってきたので誰もが買えるようになってきました。

テレビが家に来てからは、僕はテレビっ子になりました。宿題を済ませると寝るまでテレビにかじりついていました。
当時の大阪では、NHKNHK教育、民放が4局(ひょっとして最初のころは3局かも)が放送されており、飽きることはありませんでした。

「おとん」「おかん」はどこの言葉?

だいぶ前から、テレビで自分の父親・母親のことを「おとん」「おかん」という人が多くなってきています。
特に関西系の芸人が「おとん」「おかん」と言うのですが、大阪で生まれ育った僕にはずっと違和感がありました。
そこで、ネットで「おとん」「おかん」がどこの方言か調べたのですが、そこには「関西以西の方言」と書いてあったり、大阪ことばの「おとうはん」「おかあはん」が短く省略されたものという記載などもありました。
しかし、僕が大阪にいたときに僕の周りで「おとん」「おかん」という言葉は聞いたことはありませんでした。
僕が子供の時のテレビ番組でもラジオ番組でも「おとん」や「おかん」という言葉は一切出てきませんでした。

大阪は商人の町なので、相手に対して柔らかい応対をする言葉が大阪の標準語であり、それは船場(せんば)言葉や、というのが僕の父親の持論でした。
花登筺(はなとこばこ)作の「番頭はんと丁稚どん」というテレビ番組は船場にある薬問屋を舞台にした喜劇でしたが、劇中でお店の娘たちは自分の父親のことは「おとうはん」と言ったり「お父ちゃん」と言ったりしていました。母親のことは「おかあはん」とか「お母ちゃん」と言っていました。
舘直志(たてなおし:二代目渋谷天外)作「親バカ子バカ」(舞台設定は大阪のとある所と思われる)でも、社長の息子役である藤山寛美が父親役の渋谷天外に「お父ちゃん」と言っていました。
また、番組タイトルは忘れましたが、笠置 シヅ子が大阪の下町で暮らす家族の母親役をしていたテレビドラマで、自分の息子役から「お母ちゃん」と呼ばれていました。

さらに、花菱アチャコと浪花千恵子が夫婦役で出ていた「お父さんはお人好し」というNHKのラジオ喜劇でも、「お父ちゃん」「お母ちゃん」であって、「おとん」「おかん」ではありませんでした。

僕が子供の時は自分も父親や母親のことを「お父ちゃん」「お母ちゃん」と呼んでいましたし、周りの友達も同じでした。
ところが、僕が中学に入学(1961年)したタイミングで、両親から突然「今日からもう、お父ちゃん、お母ちゃんと呼んだらあかん」と言われ、
「そんなら、なんて呼んだらええねん」と聞くと、父親が「うちはパパとかママとかいう雰囲気の家庭とちゃうから、お父さん、お母さんと言うようにしょうか」と言いました。
そのあとからすぐに両親を「お父さん」「お母さん」と呼ばなければならなくなったのですが、どうにも照れくさくて言いづらい思いをしました。
しかし、長男の僕がちゃんと「お父さん」「お母さん」と言わないと弟たちが言わないので、無理やり何かにつけて「お父さん」「お母さん」を連発して自分自身を慣れさせました。でも、慣れるまでに一週間ほどかかりました。
そのためか、弟たちも自然と「お父さん」「お母さん」が言葉に出るようになって、兄の役目は果たせたかなと思いました。

僕の家は当時大阪のベッドタウンと言われる地域にあったのですが、父が言うように、確かに「パパ」「ママ」という雰囲気ではありませんでしたし、当時僕の周りで「パパ」「ママ」と言っていた家庭はほとんどなかったように思います。
当時のテレビ番組の「パパ起きてちょうだい」では「パパ」「ママ」と言っていましたが、東京ではそういう家庭が多いのかなと思っていた程度でした。
逆に父から「パパ」「ママ」と呼ぶようにと言われていたらもっと照れくさくて、ずっと言い慣れなかったかもしれません。

僕が家庭を持ってからは、子供達には最初から「お父さん」「お母さん」と呼ばせました。やっぱり「パパ」「ママ」という言葉に慣れがないためでした。
しかし、僕の子供たちは自分の子供には「パパ」「ママ」と言わせているようです。


僕は1972年に上京したのでそれ以降のことは分かりませんが、それ以前では「おとん」「おかん」という言葉は聞いたことがありませんでした。
僕の上京後に関西で「おとん」「おかん」という言葉ができたのか、それとも「恵方巻」と同じように、もっと昔からあった言葉でそれが復活したのか、もしご存じの方がいらっしゃれば教えていただきたいと思います。

幼児の時に感動したこと

僕が幼稚園児(1954年)かそれより1歳前(1953年)のことだと思います。
近所の子供たちと一緒に外で遊んでいたとき、道路の舗装工事だったかなにかは忘れましたが、道にコールタールがあり、それを泥遊びのように手で触ったり捏ねたりしていました。
手についたコールタールはべたべたした感じでしたが、泥遊びの時のように石鹸で手を洗えばきれいに取れるだろうと思っていました。子供でしたので石鹸で洗えば何でも取れるものだと思っていました。
夕方になって家に帰って母から「何をして遊んだの!こんなものを手に付けて! 早く石鹸で洗いなさい」と言われて石鹸で洗ったのですがコールタールは全く取れませんでした。
新聞紙で手についたコールタールをこそぎ取ろうとしましたがきれいに取れません。

近所の友達も同じ結果だったようで、母親と子供たちが外に出てきて、母親たちがどうしようかと話をしていました。
「このまま自然にコールタールが取れていくのを待つしかないのかもしれへん」と母親たちが半分あきらめかけていたとき、近所のあるおばさんが、「コールタールは灯油で溶けるからそれでコールタールを落としたらええねん、灯油は石鹸で取れるからそれでやってみたら」と教えてくれました。
僕は子供心にホントかな、石鹸で取れないのにそんなことで取れるのかと半信半疑でした。
しかし、このままではご飯も食べられないので、一人の母親が灯油を持ってきて子供たちの手にかけてくれました。
すると、コールタールが溶けだしたのです。それを新聞紙で手についたコールタールと灯油を取り除いて、そのあと石鹸で灯油分を洗い流して無事解決しました。
石鹸で洗った後でも、手には灯油のにおいが残っていて食事の時には少し気になりました。

このことは僕にとって大きな衝撃であり、感動でした。こんな解決方法があるなんて思いもしませんでした。
これ以降僕は物事の解決には直接的ではなくても良いんだ、一回別のことを行ってからでも最終的に解決すればいいんだと思うようになりました。

これは夏のことでしたが、家庭に灯油があったのは、以前に「水道完備ガス見込」で書いたように当時は各家庭で石油コンロを使っていたからです。

現在のコロナ禍でもこの考え方が適用できないものなのかと思っています。
例えば新型コロナウイルスをやっつける天敵のウイルスか細菌を投入して、そのあとに天敵ウイルスか細菌をやっつける薬品を投入するような解決方法がないものかと思ってしまいます。

なお、このことが幼稚園入園前のことであった場合は、これが「一番古い記憶」になりますが、幼稚園入園前であったという確信はありません。

洋楽が好きだった

音楽的能力がない僕でしたが、音楽を聴くのは好きでした。
謡曲(今ではこの言葉はほとんど使われなくなりましたね)も好きでしたが、洋楽は特に好きでした。
小学校5、6年生ぐらいから中学生頃のテレビ番組で洋楽を中心にした「ザ・ヒットパレード」(Wikipediaによると放送は1959年~)はよく見ていました。この中で歌われる洋楽は英語の歌詞を直訳の日本語にして歌っていたので、歌詞の意味もよく分かり僕たちも歌いやすいものでした。
この番組で坂本九ジェリー藤尾中尾ミエなども知りました。
ザ・ヒットパレード」で坂本九が歌う「悲しき60歳(Ya Mustafa)」(1960年)や「ステキなタイミング(Good Timin’)」(1960年)が好きだったので、坂本九のファンになりました。僕が最初に買ったレコード(ドーナツ盤)は坂本九の「明日があるさ」(1963年)でした。
このころは原曲をだれが歌っているかは知らず、日本の歌手が歌っているのを聞いていただけですが、その後中学生になったころ(1961年~)ラジオでいろいろな曲を原曲で聞くようになりました。

そのきっかけが「ザ・ベンチャーズThe Ventures)」でした。歌詞がない演奏だけの楽曲でしたが、クラシック以外で歌詞のない洋楽を聴くのは初めてなので斬新な感じがしました。「インストゥルメンタル(Instrumental)」という言葉はこの時初めて知りました。
ここで、「歌詞のない洋楽を聴くのは初めて」と書いたのは、当時「歌のない歌謡曲」というラジオ番組があって、この中で演奏だけの歌謡曲を放送していたからです。

ザ・ベンチャーズは日本にエレキギターブームを起こしましたが、当時エレキギターを持っている人は不良だなどという風潮でした。僕はエレキギターを弾ければかっこいいなぁと思っていましたが、僕の音楽的能力ではとても無理だと思って手を出せませんでした。

その後、このザ・ベンチャーズを上回る大きな波が来ました。「ザ・ビートルズThe Beatles)」です。
中学3年生の時(1963年)テレビの海外ニュースに映されたビートルズの公演は衝撃でした。観客(特に女性)が絶叫しているのです。音楽を聴きに来て絶叫する人がいるなんて初めて見ました。失神して係員に運び出される女性客も映し出されていて、こんなことがあり得るのかとまさに衝撃を受けました。
ただ、日本でも「日劇エスタンカーニバル」での熱狂はあったようですが、僕は見ていません。

ラジオでビートルズの曲を聴くと斬新で、力強く、優しく、メロディアスで、こんなすばらしい音楽があるのかと感激しました。
それからはずっとビートルズにはまりました。ビートルズが出す曲すべてが素晴らしくずっと聞いていても飽きませんでした。
高校2年の時(1965年)学園祭で放送部がステレオコンサートを開催し、全曲ビートルズのレコードをかけるというので大勢の生徒が詰めかけました。
学園祭なのでいろいろなイベントがある中でもかなり多くの生徒が集まりました。
当時、自分の家にステレオ装置を持っている家庭は少なく、僕の家にもラジオやテレビはありましたがステレオはありませんでしたので、ステレオでビートルズが聞けるのは大きな楽しみでした。
学園祭の2日目もステレオコンサートをやるというので、大勢の生徒がビートルズを聴くために集まりました。しかし、主催の放送部が「昨日ビートルズをかけましたので、今日はビートルズではなく他のレコードをかけます」といった途端、ほとんどの生徒がその会場を後にしました。僕もそうしました。
それほどビートルズの人気は高かったのです。

そのほか、僕はファルセットを使う曲が好きでした。
「フォーシーズンズ(The Four Seasons)」や「ビーチボーイズThe Beach Boys)」などの曲を好んでよく聴いていました。
フォーシーズンズは「シェリー(Sherry)」で初めて知りましたが、「フランキーヴァリ」の独特の高音やハーモニーが素晴らしく日本の歌手たちが歌う「シェリー」とは別物のサウンドでした。
「カモン マリアンヌ(C'mon Marianne)」という曲のレコード(ドーナツ盤)を買いました。

ビーチボーイズも軽快なリズム、サウンドとコーラスがどの曲も素晴らしく、特に「バーバラアン(Barbara Ann)」が好きで、レコードを買ってこの曲だけ何回も聞いていました。

大学に入って(1968年)から、軽音楽部にいた先輩が教えてくれたのが、「シカゴ(Chicago)」と「レッド・ツェッペリンLed Zeppelin)」でした。
「シカゴ」はロックにブラスセクションを加えた形式でブラスロックと言われていました。ブラスを加えたことでエレキギターだけではない独特のサウンドで代表曲の「長い夜(25 or 6 to 4)」は良く聴きました。
「レッドツェッペリン」はアルバム「レッド・ツェッペリン登場(LED ZEPPELIN)」を先輩に聞かせてもらいましたが、「ビートルズ」とは違う力強いサウンドで今から思うとこれぞロックという印象でした。ただ、僕には「レッドツェッペリン」を長く聴き続ける体力がありませんでした。

その後プログレッシブロックといわれる「ピンクフロイド (Pink Floyd) 」に興味を持ちました。激しいロックよりも好みに合ったのかもしれません。

社会人になって安物ですが自分のステレオ装置(カッコよく言うと、オーディオシステム)を持ちました。
これを機会に、ピンクフロイドのアルバム「炎〜あなたがここにいてほしい(Wish You Were Here)」(1975年)や、以前に発売されていて僕が注目していた「クリーム(Cream)」のアルバム「クリームの素晴らしき世界(Wheels of Fire)」(1968年)なども購入しました。
また、「カーペンターズ(The Carpenters)」や「スリーディグリーズ(The Three Degrees)」などのLPレコードも買いました。これらは妻の好みの音楽でしたが僕も好きでした。

その後、「エアロスミスAerosmith)」にも一時はまり、アルバム「飛べ!エアロスミス(Get Your Wings)」と「闇夜のヘヴィ・ロック(Toys in the Attic)」を購入しましたが、やはり聴き続ける体力がなく2年ぐらいで聞かなくなりました。

その後ステレオ装置のアンプが故障してしまい、レコードプレーヤーもスピーカーも処分してしまいました。
これ以降、新しい洋楽は聴かなくなってしまいました。

定年退職してから再び安物のステレオ装置を購入し、今聴いているのは、「ビートルズ」「ビーチボーイズ」「フォーシーズンズ」「イーグルス(The Eagles)」「エリッククラプトン(Eric Patrick Clapton)」などになっています。僕の懐メロです。

ビートルズ」は赤盤、青盤のレコードがリリースされたのですが、当時の僕の好みの曲が赤盤だったので赤盤だけ購入して、青盤は購入しませんでした。
今は青盤の曲のほうが好みなので青盤を購入しなかったことを後悔していますが、現在レコードプレーヤーを持っていないので、今更青盤を買うこともありません。
ザ・ビートルズ1+」は購入しましたが、まだ封を切っていません。これも、Blu-ray版があるのを知らずDVD版を買ってしまったので後悔しています。

少し前に、フォーシーズンズを描いた映画の「ジャージーボーイズ(Jersey Boys)」をテレビで見たのですが、フォーシーズンズの成り立ちを知ることができ、また懐かしい曲の数々も聴けて楽しい時間を過ごせました。
それにしても、フランキー・ヴァリと同じような背格好で同じような高音を出せる役者がいるなんてアメリカのショービジネス界はすごいと思いました。

初めてのリコーダー:リコーダー教育最初の世代

僕は音楽が苦手でした。自分で音程が取れないのです。
自分が音痴であると知ったのは小学校一年生の時(1955年)でした。
参観日の後、母が先生と面談して帰ってきて、先生から「takegrigriちゃんはいつも元気よく大きな声で歌ってくれるのですが、ちょっと音程が外れています」と言われたと知らされました。子供心に、僕が大きな声で歌うのは恥ずかしいことなのだと思うようになりました。
それからは音楽の時間で歌うときは小声で歌うようになりました。幸い音楽の授業中に一人で歌う場面はありませんでした。

僕が小学校5年(1959年)か6年(1960年)の時、リコーダーの授業が始まりました。おそらく僕たちがリコーダー教育の最初の世代ではないかと思っています。
当時はリコーダーと言わず「たて笛」と言っていた記憶があります。当時たて笛として知られていたものは竹でできたものであり、今度授業で使うたて笛はそれとは違うということでした。そのためリコーダーを見たことがある生徒はほとんどいませんでした。
リコーダーを購入する前にリコーダーとはどういうものかを生徒たちに体験させる授業がありました。
担任の先生が50本ほどのリコーダーをまとめて持ってきました。学校の中の各クラスでこの50本のリコーダーを使いまわしてリコーダーを体験させるのです。
他人が使ったリコーダーをそのまま使うのは嫌だなぁと思っていたところ、担任の先生が湯飲み茶わんにアルコールを入れて各自に配られたリコーダーの歌口をつけるように回ってきました。僕は神経質なので結構長めにアルコールに歌口を浸けました。
そして、リコーダーを教えに来た先生がドレミファソラシドの音の出し方を教えてくれました。

それからすぐにリコーダーを購入することになりましたが、経済的に余裕がない家庭の生徒には、リコーダーが貸し出されました。もちろんその都度アルコールは用意されていました。
リコーダーの授業では一番簡単な曲(「きらきら星」だったか、「さくらさくら」だったか憶えていません)を吹く練習をしましたが、リコーダーを使う授業は多くありませんでした。音楽的能力が全くない僕は楽譜を見ても吹けないし、まして音を探しながら曲を演奏することもできず、せっかく購入したリコーダーですがほとんど使わずに自宅に置かれたままでした。
僕の弟は音を探しながら曲を演奏できるので、いつも羨ましく思っていました。弟に教えてもらうのですが、演奏したい曲の音階が今の音より上なのか下なのかもわからないので、弟も僕に教えるのは難しかったようです。

また、中学校ではリコーダーを使う音楽の授業がなかったので、結局僕はリコーダーが吹けないままです。
僕はハーモニカも吹けないので、音楽的能力はゼロです。

「恵方巻」を知ったのは50数年前のことだった

お正月が過ぎると節分がすぐにやってくる感じですが、節分といえば今では「恵方巻」を食べることが普通のことになっています。
僕は大阪で生まれ育ちましたが、子供のころは大阪でも恵方巻は一般には知られていませんでした。

僕が中学生の頃(1961年~1964年)か高校生の時(1964年~1967年)だったと思いますが、近所の寿司屋さんがチラシを持って家にやってきて、
「大阪には昔から恵方巻という風習があって、節分にその年の縁起のいい方向を向いて海苔巻き(関東では太巻きというようです)を無言で一本丸ごと食べると願い事が叶うといわれています」と言ってきました。そして、その海苔巻きの注文を取りに来たのです。
当時、寿司屋には握り寿司や押し寿司の出前を頼むことはありましたが、海苔巻きは自分の家で作ることが多く、わざわざお金を出して海苔巻きを買うことはほとんどありませんでした。
この近所の寿司屋さんは小学校で同じ学年の男の子の実家で、その男の子とは同じクラスになったことがないのであまり話をしたことはなかったのですが、近所でしたので顔と名前は知っていました。

そういうこともあり、本当に昔からの風習かなといぶかりつつ、また自分の家でも作れる海苔巻きでしたが家族の人数分の本数をこの寿司屋さんに頼むことにしました。
節分の当日、母と僕と弟たちがその年の縁起の良い方向(恵方)を向いて正座し、海苔巻きを食べ始めました。父は仕事で帰りが遅くなるのが常でしたので一緒ではありませんでした。
僕はこういう儀式は決められたとおりにちゃんとやりたいという考え方なのですが、海苔巻きを食べ始めて3口目ぐらいで母が「こんなんいっぺんに食べられへん」「のどが詰まるわ」「こんな食べ方したら美味しいことあらへん」などと言い出しました。無言で食べると願い事が叶うという儀式なのに母が喋りだしたので、僕は「黙って食べよ」と言いたかったのですが、喋ってしまうと僕の願い事が叶わなくなると思ってそのまま無言で食べ続けました。ただ、僕も母が喋りだしたことが気になって、結局十分な願い事をしないまま食べ終わってしまいました。

寿司屋さんの海苔巻きは確かに自分の家の海苔巻きよりは高級でしたが、お金を出して買うかというとちょっと考えてしまうというものでした。当時の恵方巻は今の恵方巻のような豪華なものではなく普通の寿司屋の海苔巻きでした。

翌年も寿司屋さんがチラシをもってやってきて海苔巻きの注文を取っていきました。
前年とは違う恵方に向かって座り、今度は母も無言で海苔巻きを食べましたが、節分の豆まきよりも重要な行事であるとも思えなかったので「恵方巻はもうやらんでもええかなぁ」ということになりました。僕の家では僕が高校生の時でも節分の豆まきは毎年きちんとやっていました。
その次の年は寿司屋さんも注文を取りに来ませんでした。おそらく、お客さんの恵方巻への関心が低かったのだと思います。
その後僕が上京する(1972年)まで恵方巻が僕の周りで話題になることはありませんでした。

それから20数年ぐらい経ったころ、テレビのニュースコーナーで大阪で恵方巻が流行っているということが紹介されました。
僕は、「えっ?恵方巻っていつから復活したんだろう?」とちょっと驚きました。どういうきっかけで恵方巻が関西で復活したのかわかりませんが、商業戦略に乗ったイベント好きな人が増えたということなのかなと思っています。また、自分の家で海苔巻きを作らなくなった家庭が増えてきたことと関係があるのかもしれません。

ただ、僕が家庭を持ってからも家では一度も恵方巻の行事をしたことはありません。海苔巻きを一本丸ごと一気に食べるという食べ方は経験上美味しいとは思えないからです。
もちろん節分の豆まきはこの歳になった今でも家で毎年欠かさず行っています。